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0130_先週の講壇_ヨハネによる福音書3 章16~21 節「神の御子を信じる人と信じない人」

牧師 松矢龍造


3章16 節はキリストの福音の要約です。文脈上は、前回のニコデモに対するイエス様の言葉

の一部とするなら、イエス様が言われた救に関する要約と言えます。同時に、この世界と人類に対して、このヨハネによる福音書の著者として用いられた使徒ヨハネが、大きな救いのテーマを述べている聖句でもあります。この聖句を巡って、二つの不思議があります。一つは、原罪を持った罪人なる私たち世を、なお創造主なる神様が愛しておられることです。そしてもう一つは、世の人が暗闇を愛して、せっかく神様から賜った独り子を拒むという不思議です。さらに言えばこの神の御子を巡って、人類は二つに分けられてしまいます。一つは、御子を信じて滅びを免れ永遠の命を得る者です。そしてもう一つは、御子を拒み続けて罪からくる報酬は死として地獄で滅んでしまう人です。神様の愛と裁きが両方語られています。

神様は本来、私たち人類がひとりも滅びることを望んでおられません。独り子なるイエス様を全人類にお与えになったという事実が、父なる神様の愛の広さ、高さ、長さ、深さを物語っています。天から派遣された神の御子を拒絶することが、すでに現実の裁きとして語られています。信じない者とは、完全にイエス様を拒絶して無視する人のことであり、一時的に疑っている人のことではありません。変えられたくないと思い続けている人のことです。終末の時を待つまでもなく、人々は光よりも闇を愛したということが、すでにさばきなのです。現在の不信仰な態度が将来の罰を招くと言うのではなく、すでにさばきなのです。滅びとは、罪の刑罰としての永遠の滅亡のことです。先に御子を信じて救われた人たちは、光のうちに生きることが、どんなに良いことであるかに、人々が気づくように祈り続け、証し続けることが、私たちの使命です。当時のユダヤ思想は、救い主・メシアの降臨の目的は、もっぱら万国民の審判の為と考えていました。

しかし神の御子の最初の降臨の目的は世を救う為でした。ですからユダヤ思想に捕らわれている人は、神の御子の救いの光を憎むのです。またキリスト教の異端であったグノーシス主義も世の光なるキリストのもとに来ません。義を問わず、放縦を続けるか、自分の義を主張する為に禁欲主義となります。放縦主義と禁欲主義は、真逆なようで、キリストの救いの光と義を拒む点では共通しています。

私たちは、光と闇のどちらを愛するのでしょうか。光を愛したいと願いながら、実際は闇を愛する生活をしてしまうのが、人間の罪の闇です。イエス様だけが私たちを救うことが出来ます。イエス様を信じるとは、イエス様を信頼し、イエス様にすがり、イエス様を頼りにするということです。そして私たちの計画や永遠の運命を、主キリストに任せることです。あなたも、父なる神様の愛を、キリストにおいて、ご聖霊の光によって、さらに見つめて行きませんか。

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