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0213先週の講壇_ヨハネによる福音書4 章1~26 節「罪の赦しと魂への満たしを求めて」

牧師 松矢龍造


古代の著名な神学者であるアウグスティヌスはこのように告白しました。「ああ主よ、あなたは、ご自分に向くようにと、私たちをお造りになりました。それゆえ、私たちの心は、あなたに憩うまでは、安らぎを得ません。」イエス様は、十字架につけられる時は、まだ満ちていないと、ファリサイ派の人々と対決することを避けて、ユダヤを去り、ガリラヤに行かれました。その際に、ユダヤからガリラヤを行き帰す通常のルートは、サマリア経由でした。しかしユダヤ人たちは、サマリアを経由することを一般的に好みませんでした。サマリア人と交際しないからでした。ユダヤで暮らすユダヤ人たちは、サマリア人は混血人でありイスラエルの神に忠実ではないと考え、彼らを嫌悪して、口もききませんでした。

ところが、イエス様は、あえてサマリアに行かれたのです。ユダヤ人から、神からの救いの対象外とされていたサマリア人が、後にイエス様を受け入れます。このことを通して、世の救い主としての御子イエス様の普遍性が示されます。イエス様は、シカルという別名シケムにあるヤコブの井戸のそばに座られました。時は正午ごろのことでした。そこにサマリア人の女性が水をくみに来ました。人々は普通暑いので、涼しい朝晩に井戸に水を汲みに来るのがほとんどでした。このサマリアの女性は、人目を避けて暑い日中に水をくみに来たという、わけありの女性だったことが分かります。イエス様は、彼女に頼み事をして、その興味と好奇心をかき立てました。誰でも、水を渇望するように心の核の魂は、神様を渇望します。神様以外に魂の渇きを求めても、壊れた水溜のように、水を貯めることが出来ず、枯れてしまいます。女性には、五人の夫がいました。病気等で死別したのか。姦淫したのか。そして今は同棲していて正式の夫ではない。だから人目を避けて昼間に水を汲みに来ていたのです。いずれにしても、この女性は、罪の赦しと、魂の満たしを求めていました。神様は霊です。それは一つの場所に制限される存在ではないということです。そしてまことの礼拝は、場所ではなく神様の霊に導かれることが重要であると言われたのです。さらに霊と真理をもって礼拝をするとは、神的な側面と人的な側面の両方があります。御聖霊とキリストの助けを頂き、へりくだりと真実をもって、神様に礼拝を捧げることが出来ますように。

主イエス様は、求める者に世のものでは与える事の出来ない真に魂を潤し満たしてくださいます。神様は真の命と霊の泉です。自分の人生は失敗であったという真実な告白から、このサマリア人の女性の救いは出発します。私たちも自分の罪の告白と悔い改めから、キリスト教と聖書の救いは始まります。そしてイエス様が、私の救い主、魂の癒し主、十字架と復活による救い主と信じることから、罪の赦しと永遠の命と、真の人生が出発してゆきます。ならば、このイエス様による魂の満たしを、隣人に分かち合いませんか。

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