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0219先週講壇_ ヨハネによる福音書 17 章 1-8 節 「永遠の命を与えるお方」

牧師 松矢龍造


この世界に、どんな多くの書物がありましても、永遠の命を与えることを約束している契約書は、 聖書だけです。今日の御言葉である 17 章は、明日十字架につけられる前の、最後の晩餐の中で語られた訣別説教の後の、主イエス様の祈りが展開されています。その祈りは、天と地、あるいは父なる神様と私達人間を執成す、仲保者の祈りです。そして16 世紀の宗教改革以降、父なる神様に、私達を執り 成す、大祭司の祈りと呼ばれて来ました。イエス様が「時が来た」と言われた時とは、十字架につけられ、復活して昇天される時が来たということです。別の表現では、まさに苦難と栄光の時が来たということです。イエス様は十字架によって、父なる神様が義であると同時に愛であることを表して、父なる神様の栄光を現わされます。そして父なる神様は、死人の中から、神の御子イエス様を復活させることによって、御子に栄光を与えてくださいます。主イエス様が、その権威を、私達人間に、永遠の命を与える為に用いられるのです。いわば私達の存在を愛する為に用いられるのです。ここで知るとは、単に父なる神様と御子なるイエス様の性質と人格を、ただ頭で知るだけではなく、その愛と力を人格的に経験し、信じて、永遠の命に預かるのです。使徒ヨハネは、手紙の方では、 永遠の命であるイエス様に、触れ、見て、聞いて、信じた。それを「知る」と表現しています。いわば人格的、かつ肉体的に知り、その人間的に知ることと、信仰との結合です。さら言えば、父なる神様とイエス様と私達が、霊的相互内在関係となって交わり知ることです。それが私達に永遠の命が与えられることとなります。 主イエス様を信じる者は、イエス様が父なる神様から遣わされたことを信じています。それ故に、神様の栄光を現わそうとします。それは死に至るまで、謙遜であり、栄光の全てを自分ではなく神様のみに帰します。そして委ねられた賜物を、神様の栄光の為に用います。その為には、イエス様ご自身の本来の栄光を輝かしてくださいと祈ることが大切です。また主の憐れみを求め、ご聖霊様を歓迎して、その力と助けを祈り求めます。それにしても、イエス様が、最後の晩餐において語られ祈られた後に、弟子たちはイエス様をゲッセマネの園で見捨てて 逃げ去ります。このイエス様の執成しは、弟子たちの幾多の欠点、弱点、罪を熟知されていながら、それにも関わらず、あくまでも彼らの長所、美点、将来の造り変えられた姿に心の目を留められて、天の父なる神様に執成されたのです。その恵みは、弟子達だけでなく、私達に一人ひとりにも臨んでいます。主イエス様の復活を信じる者たちは、永遠の約束と栄光が待っています。しばし地上での患難を信仰と希望をもって耐え忍んでいきませんか。

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