0306_先週の講壇_ヨハネによる福音書4 章43~54 節「イエス様の言葉に対する深い信仰」
- CPC K
- 2022年3月6日
- 読了時間: 3分
牧師 松矢龍造
イエス様は以前、水を奇跡によって、ぶどう酒に変えられたカナに再び行かれました。そこにカファルナウムの役人が、イエス様にカナからカファルナウムまで下って来て、病で死にかかっている息子を助けて欲しいと嘆願しに来たのです。ここで「生きる」と訳された原文の言葉は、「治る」「助かる」「死なない」「永遠に生きる」という意味でもあります。主イエス様は、カナからカファルナウムの役人の家の息子のところに来て欲しいと言われたのに、このカナの場所で、離れたところから「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われたのです。
するとこの役人は、イエス様の言われた言葉を信じて帰っていきました。イエス様の言われた言葉だけを信じて帰宅する。それはイエス様の言葉に対する深い信仰を示しています。ここで、この役人は、一目散に家に帰ったでしょうか。実はそうではないのです。もう息子は癒されたと信じているので、時間をかけて帰る信頼ぶりであったことが分かります。役人と僕たちが出会ったのは翌日です。一目散にカナからカファルナウムまで帰ったなら、その日に到着しているはずです。ところが翌日になっています。それは、イエス様が言われたことを信じ切っていましたから、大急ぎでの旅などによる疲れを一掃するために、静かに一夜の宿をとったのでしょう。イエス様の言葉だけを信じて、離れたところで神の御子イエス様の権威ある言葉を聴けば、それで十分。それは他の聖書箇所にありますローマの百人隊長の信仰にも通ずることです。ユダヤ人にも見られないような深い信仰が、カファルナウムの役人にも百卒長にも見られました。この役人が僕に息子が癒された時間を尋ねると、イエス様が「あなたの息子は生きる」と言われた時刻と、まったく同じであると知りました。そして、彼も家族も、こぞって信じました。故郷ガリラヤで深い信仰を示したのは、ユダヤ人でもなく、異邦人であったことは、皮肉でありましたが、それでこそ、全世界の救い主、私たち異邦人にとっても救い主であることが、明らかにされるということになりました。それにしても、最初は、奇跡も、目で確認できる証拠も全くないのに、この役人は、主イエス様の言葉のみを信じて家に向かったのです。これこそ生きた信仰です。ともするとイエス様の言葉と今の世の現実と切り離して、聖書は聖書、この世はこの世と分けて考える弱さが私たちにあるのではないでしょうか。しかしこの役人も、百卒長も、神様の言葉と、この世のことを分けるのではなく、聖書の言葉、イエス様の言葉と、この世の現実と合わせて信じたのです。私たちは、どうでしょうか。イエス様を信じるなら、信仰に従って、信頼して行動することが、深い信仰です。服従と信頼なくして、真の信仰はありえません。主イエス様の御言葉を、日常生活の中で、日々頂き、日常の生活の中で、主に信頼して、感謝と愛と忠実な歩みを、ご聖霊の力を頂いて、生かされ生きてゆきませんか。




コメント