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0312先週講壇_ヨハネによる福音書 18 章 1-11 節 「 わたしはある・イエス様は全能の神である 」

牧師 松矢龍造


イスカリオテのユダは、イエス様がゲッセマネの園で多くの時間、祈りに費やしておられることを知っていました。ですからイエス様を捕まえる人たちを、この園に誘導して来たのです。けれど主イエス様の方も、見つかるのを待つのではなく、ご自身を捕まえる人たちに会おうと自ら出て来られたのです。

一隊の兵士や下役たちは、松明や、ともし火や武器を手にして来たとは、実に、ものものしいです。まるで凶悪な強盗犯を捕まえでもしそうな勢いです。まさにイエス様が、どういうお方か分かっていないことの表われです。ここでユダとその一隊が、宗教と政治において悪に染まり、その目的を達成する為に武力に依り頼む世界を代表していると見る人がいます。ロシアのウクライナ侵攻のことが、心をよぎります。

イエス様が、何ら隠れることなく「わたしである」と言われたその声には、神的な響きがあったのでしょう。イエス様が逃げもせず、どうどうと、ご自身のことを言われるその神的な響きに捕まえようとして来た彼らは、驚き後ずさりして地に倒れるほどでした。

「 わたしはある」と三度も繰り返されています。この「わたしはある」を強調された意味は、何なのでしょうか。第一に「わたしはある」とは、イエス様が全能者にして創造主であるということです。万物を創造された神様であるので「わたしはある」と言われたのです。第二に「わたしはある」と言われたのは、ご自身のことを強調して捕まり、他の弟子たちを逃がす為でした。第三に、「わたしはある」と言われたのは、父なる神様の御心を必ず成し遂げるという決意の表れです。悪の力に対する勝利は、イエス様御自身が、神の怒りの杯を飲むことによってのみ可能です。キリストが、その杯を一人で、その最後の一滴まで飲み干すことが、父なる神様の計画であることを悟っていたことの表われです。もしここで、ペトロが、手下のマルコスを殺していれば、イエス様は、十字架に至ることなく、神様の贖いと救いの計画が挫折していたでしょう。私たちは時折 、 自ら行動して無理矢理、決着をつけてみたくなるのではないでしょうか。そのような動きは、多くの場合、罪を引き起こします。イエス様の言われた杯とは、一つに、イエス様が、世の罪を贖う為に、耐えなければならない受難のことです。二つ目に、十字架で死ぬことです。三つ目に、私たちの罪の身代わりとして、神様から捨てられ、分離される霊的な痛みのことです。

私たちが、滅び失せないとしたら、それは主イエス様が、十字架で身代わりに死んでくださったからです。この主イエス様の愛に、ご聖霊によって応えて、福音を真理として、隣人に接して行きませんか。

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