0313_先週の講壇 ヨハネによる福音書5 章1~18 節 「神様の救済による万物の再創造」
- CPC K
- 2022年3月20日
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牧師 松矢龍造
エルサレムの北の城門に羊の門があり、その傍らにヘブライ語で「憐れみ」という意味でベトザタと呼ばれる池がありました。そこには五つの回廊があり、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。そこに38 年も病気で苦しんでいる人がいて、肉体的にも精神的にも社会的に霊的にも絶望していました。イエス様は、そのような社会から見捨てられていた人々に対しても救い主でした。イエス様は物理的な体の癒しと、霊と心の良心において正しくなりたいかという二つの意味を込めて「良くなりたいか」とこの病人に問いかけられました。見捨てられていた38 年間という絶望的な状況した。しかし人間の無力さが示されるところでこそ、救い主キリストの力が現わされる時です。
イエス様が病気をすぐに癒されたので、その人は床を担いで歩きだしました。その日は安息日でした。ユダヤ人たちは、病が癒されて床を担ぐことは荷物を運ぶことになるので違反していると見ました。憐れみの目で見ておられたイエス様の見方と、まったく違っていました。ユダヤ人たちは、人の命や健康よりも自分たちのつまらない規則に関心があったということです。イエス様は肉体の病を癒されただけでなく、霊と心の良心においても救いが働くように導かれました。イエス様の癒しは、病をも根源とする罪からの解放を目指しておられたのです。罪に留まる者は、結局、罪の奴隷であり、罪の内に死ぬほかありません。それはもっとひどいことです。この病人には、さらに大きな奇跡である、罪が赦されて永遠の命が与えられ、神様の御前に、真の人生を歩むという奇跡が必要でした。この奇跡と救いは、人間の誰もが必要としているものです。父なる神様は、救済によって万物が再創造されるまで働かれるお方です。そして御子イエス様も、人間の罪の為に破壊れさた世界に対して、万物の更新の為に働かれるお方です。ユダヤ人は、父なる神と自分を子として神と主張されているイエス様を信じることなく、冒涜罪で訴える方を選びました。私たちは、生きるための指針を、神様が造られたものを基準にするのでしょうか。それとも人が作ったものを基準とするのでしょうか。更に、人々を助ける人になっているのか。それとも不必要な、つまずきの石のような人になっているのか。どちらでしょうか。
38 年間、病で苦しむ者を主イエス様が癒されたように、ご自身を求める者に神様は救いをお与えになります。ご聖霊によって神の御子を信じて受け入れ、霊的にも御心なら肉体と精神と社会性においても癒される人々が、更に興されることになりますように。そして一人でも多くの人々が、イエス様の救いと癒しを受け入れることが出来るように、とりなし、愛の業をなし、証しすることを、ご聖霊によって行ってゆきませんか。




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