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0319先週講壇_ヨハネによる福音書 18 章 1 11 節 「 真実のみを語られるイエス様と三度否むペトロ 」

牧師 松矢龍造


ゲッセマネの園において逮捕された イエス様 は、 その年の大祭司であるカイアファでなく、しゅうとのアンナスのところに先ず連行されました。 大祭司とは、神殿に仕える祭司たちを統括し、イスラエルの宗教と政治において最高の権力を持っていました。ローマ帝国から派遣されていた総督は、このユダヤの宗教と政治の最高権力者を、たびたび交代させて権力の集中を防ごうとしていました。モーセの律法によれば、大祭司は終身官でした。アンナスは、辞職後も大祭司の称号を持っていて、イエス様をどうするかなど重要な問題では、助言を求められていました。

ペトロたちが、大祭司の中庭に入ったということは、ここである意味で二つの裁判が行われていたと見ることが出来ます。一つの裁判は、大祭司の前でのイエス様に対して、もう一つの裁判は、中庭にいたペトロに対してです。ペトロを脅したのは、ローマ兵ではなく、門番の女性でした。強い相手ではないのに、ペトロは否認してしまいます。まさに大胆さと勇気を失っていました。それは逃げた弟子たちの心を象徴しています。人生の大事な瞬間において、キリストが主であることを否定し、何らかの危険に直面した時、信者であることを隠すという罪を犯してしまうことも決して他人事ではなく、私自身、私たち自身の問題です。加えてキリストの僕が、その身分を明かさずして、敵人の中に入るのは、いつも危険であることが示されています。むしろ、めいめいの立場を明らかにして、世に挑戦しないと、ペトロのように、何度も否む者になりかねません。ペトロは、自分の罪による、精神と霊的な冷え込みを、この世の物理的な火で暖めても精神と霊的冷え込みが、暖まることなどできません。ペトロは、自分の力に頼り、祈りが不足していて、まさに二度、三度、イエス様を否認しました。けれど、このペトロの、この弱さと罪は私自身、私たち自身の弱さと罪です。しかし、にもかかわらず、イエス様の赦しの愛は、どこまでも大きいのです。私たちが、もし心から悔い改めるなら、イエス様にとって、大き過ぎて赦せないような罪はありません。あなたの最も重い罪でさえ、あなたが、それを捨てて赦しをこうなら、イエス様は赦してくださいます。罪による敗北の中ではなく、たとえ敗北したとしても悔い改めて善を目指して努力する中で、私達 の真実な人格を認めてくださいます。この手痛い失敗から、 悔い改めて立ち直ることによってのみ 、 ペトロは教会の指導者となることが出来ました。あなたも、このまことの大祭司なるイエス様の執り成しを受けて、 悔い改めて主イエス様の十字架の赦しを受けとりませんか。そして御聖霊なる神様の助けによって、復活のイエス様から力

を頂いて、主イエス様の証人として「私は、イエス様の十字架と復活の証人です」と証しして行きませんか。

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