top of page
  • 執筆者の写真CPC K

0326先週講壇_ヨハネによる福音書 18 章 28-40 節 「 さばく者がかえって裁かれる 」

牧師 松矢龍造


ピラトの人柄は冷酷で、おごり高ぶる倨傲で、そのくせ意志薄弱で優柔不断な面があったと伝えられています。政治的な関心や社会的な関心のみに、つき動かされている一人です。真理や神様の啓示者に相対しても、理解することがなく、一時関心をよせても、すぐにその場を去る人でした。キリスト者は、全ての時代を貫いて、そのような現実と人物に直面します。

ピラトは、イエス様に対して、罪を認めることはできませんでした。しかしユダヤ人たちが、暴動を起こして、ローマ皇帝に、訴えられて自分が失脚することを恐れて、自己保身に走りました。ピラトは、ユダヤ人指導者の反感をかうことなく、群衆にイエス様の釈放を言わせようと計りました。しかし結果は、イエス様ではなく、「バラバを」となりました。ローマ帝国にとって、ローマに政治的、軍事的に反逆しているバラバは、最も釈放したくない人物であったはずです。人間の策略は、なんともろく、むしろ不利な結果となってしまいます。

けれど、主キリストは、天国をその力で、教会をその恵みで、地獄をその正しさで支配しておられるお方です。私たちは、どの時代であっても、真理であり、神様の啓示者であるキリストから、心と信仰の目を離してはなりません。

バラバは、当時、ローマ帝国に反逆する熱心党、武装革命家、強盗であり人殺しでした。しかし一部のユダヤ人熱心党員からは、英雄と言われていたかもしれません。ユダヤ人は、ローマ帝国の植民地下で、ローマ帝国に統治されることや、税金を払うことを嫌っていました。当時、裁く側であったユダヤ教の祭司たちや、ユダヤ人議員。またローマ総督ピラトも裁く側でした。しかし神様の御前で、彼らの方が裁かれていたのではないでしょうか。そして「この男ではない。バラバを」と大声で言い返した群衆も、裁かれる側ではなかったでしょうか。バラバは、イエス様の身代わりとして釈放されました。ある面で、キリスト者も、キリストが十字架で私たちの罪の身代わりとなってくださったが故に、罪赦されて釈放された者たちではないでしょうか。私たち一人ひとりも、本来は神様の御前で裁かれる側です。そのままでは、私が私たちの方が、十字架つけられて、裁かれる側でした。ユダヤ人指導者の妬み、ピラトの自己保身、群衆の無知、それらが、イエス様に死刑の判決を下します。しかしこれらの人々の罪はみな私の中に、私たちの内にある罪ではないでしょうか。何の罪もないお方が、私たちの救いの為に十字架に向かわれます。申し訳なさと、なんというありがたさでしょうか。「主よ、申し訳ありません。悔い改めて主に立ち帰ります。」そのように、罪を告白して、ご聖霊様によって、主イエス様の十字架の贖いを、私たちにも適応してくださいと求めませんか。そしてさらに私たちも、ご聖霊の力を頂いて、この大いなる恵みの証人とならせて頂きませんか。

閲覧数:1回0件のコメント
bottom of page