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0430先週の講壇_ヨハネによる福音書 19 章 28-37 節 「 十字架による救いを成し遂げられたキリスト 」

牧師 松矢龍造


十字架上にさらされた人は、非常な熱発の結果、たえ難い渇きを覚えると言われています。イエス様の渇きは、肉体上の渇きはもちろんですが、弟子たちの裏切りと離反という精神的な渇きも加わっています。また「十字架につけろ」と叫ぶ群衆の中で、社会的にも渇きます。そして父なる神様から見捨てられるという霊的な渇きは、耐えがたいものであったでしょう。主イエス様が、私たちの罪の為に、また魂が渇かぬように、十字架上で、渇いてくださった。何という申し訳なさと、感謝でしょうか。イエス様が 「成し遂げられた」と言われたのは、 この世の命が終わっただけでなく、私たちの罪の犠牲となる為に、父なる神様が遣わされた目的が、成就し完了したということです。さらにいえば、私たちの人間の罪の贖いが、十字架で、血を流して完了し、成し遂げられたということです。イエス様の足だけが折られなかったのは、既に死んでいたことと、聖書の預言の成就でした。さらに加えて、イエス様が、過ぎ越しのいけにえとしての小羊であり、無罪性と義人の死を強調するものでもあったことでしょう。わき腹を刺すことは、心臓を射貫いて、確実に死んだことを確認することです。医学的には、心臓から、血と水が分離して出てくるのは、死んだ確実な証拠

だと言われています。さらに血と水が流れたことは、信仰的、霊的な意味があると言われています。一つは、血は、罪と罪責感からのきよめであり、水は、御言葉によって罪人の汚れがきよめられるということだとするものです。二つ目に、血は、罪からの救いを意味し、水は、イエス様の犠牲によってのみ与えられる新しい霊的な生命の象徴である。三つ目に、血は、 義と認められる義認であり、水は、 聖く変えられる聖化であるということです。四つ目に、主イエス様のわき腹から、血と水が流れ出た事実が、霊的な注ぎとつながっていることを示すというものです。ゼカリヤ書12 章 10 節「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」憐れみと祈りの霊は、刺しぬかれたイエス様の血と水が流れて、与えられるということです。イエス様の十字架は、あくまでも主が 無罪であり、私たちの罪の身代わりとしての「いけにえ」であったことの成就であることが強調されています。主イエス様は、まさに私たちの罪を取り除く、神の小羊なのです。この尊い犠牲に対して、私たちは、何をもって応えたよいのでしょうか。神様に愛されている皆さん、イエス様の犠牲の愛に応えて、私たちも、多く罪が赦された恵みに感謝して、ご聖霊によって、労苦と献身と忠誠へと向かいませんか。

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