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0501先週の講壇_ヨハネ福音書6 章22~40 節「誤った探求者でなく真理と真実の探究者」

牧師 松矢龍造


イエス様は、ガリラヤ湖の東岸において男だけで5千人、女性や子どもたちを加えたなら約2万人をパンと魚で満たさせる奇跡を行われました。続いて湖の上を歩かれる奇跡をなさってカファルナウムに行かれました。この時、群衆が求めていたのは、ローマ帝国の植民地支配の中にいてパンに不自由していましたから、政治的、軍事的、経済的メシア・救い主を求めていました。イエス様がメシア・救い主として来られたのは、もっと根本的な、罪と死と永遠の命、虚無と悪魔からの救いと解放の為に来られたのです。物理的な食べ物は、朽ちるものですが、イエス様が与えるパンは、永遠の命に至る食べ物です。

ここで、イエス様は、生活の為に働いてはならないと言われたのではありません。それが生活の中の最高の目的や目標となってはならないということです。私たちの最高の生活や働きの目的や目標は、とこしえに残るものの為に働くべきです。この世は、ただ一度しか生きえず、すみやかに過ぎてゆきます。その中で、永遠を目指し、永遠に残るものの為に、働きたいものです。ところが、群衆には、その意味が分からず、あくまでも、しるしのみを求めました。荒れ野において、マンナという糧を40 年間与えられた御方は、天の父なる神様であり、神の御子イエス様は、加えて、真の命を与える御方であると言われました。群衆がイエス様を追いかけたのは、パンの奇跡を見て、イエス様の本性を理解したからではありません。パンを食べた満腹感の故でした。それ故、イエス様は、5 千人いや2 万人の給食の奇跡の意味を語られました。私たちが、救い主イエス様に求めるものは何でしょうか。朽ちるこの世のものではなく、もっと根源的なものを求めているでしょうか。罪と死と永遠の命の解決、虚無と悪魔に打ち勝ち、希望と愛と赦しの為に、真の永遠の命のパンなる救い主イエス様を、私たちは求めているでしょうか。真実でないものを追い求める、誤った探求者ではなく、真の真理と真実の探究者となれますように。主イエス様の為に成したことのみ、永久に残ります。それは主イエス様を信じ、良き愛の業をご聖霊によってなし、真理なるキリストを証しすることです。主のみこころを行うことだけが、天に宝を積むことです。主の御心とは、神様が意図された内容、神様の意志、神様の意向と御旨のことです。その為に、日々自分の魂が、霊の糧なる神様の御言葉によって養われることが必要不可欠です。ただし、私たちの善行と愛の業の後に、救いが来るのではありません。イエス様による救の後に、善行と愛の業が続きます。先ず自分の罪を、神様の御前に言い表し、キリストを私の救い主、また私の人生の主として信じて受け入れることです。そして父なる神様は、私たち人間が悔い改めて御子を信じることと、日々の生活のことと、両方を支えるお方です。この主なる神様に信頼して、祈りつつ御聖霊の助けと力を受け、従って行きませんか。

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