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0514先週の講壇_ヨハネによる福音書 20 章 1-10 節「 あらゆる拠り所となるキリストの復活 」

牧師 松矢龍造


キリストの十字架と復活、すなわちキリストの福音は、あらゆる意味で、私たちの信仰と生活の拠り所となります。イエス様は、神の御子救い主であり、その約束は全て信頼できます。またイエス様を信じる者も、復活させてくださる保証です。そして、あらゆる希望の源であり、宣教の労苦が、決して無駄にならないことを示しています。ヨハネは、ペトロよりも先についたのに、墓の中に入りませんでした。ペトロが後から来て、墓の中にすぐに入るのは、直情型のペトロの性格から見ると、うなずけます。しかしヨハネは、思索的な性格ですから、空である墓を見ていましたが、これが、どういう意味であるか、信仰と結びつけられるものであろうか。考察し始め、完全に悟るまでには至りませんが、見える次元から、信仰の次元に移り始める時間となったのではないでしょうか。ですから復活信仰の入り口に立っていたのではなかと考えられます。ヨハネによる福音書では「見て信じた」ということが、何度も出てきます。それが「見ずに信じる」ことに変わってゆく、転換点の場面ではないでしょうか。

復活信仰と、聖書の御言葉が、結びつけられるのは、ペンテコステの時の、ご聖霊の降臨以降と考えられます。ですから、復活の信仰は、復活の主の霊的な出会いと共に、聖書の御言葉と結びつけて確信を深めてゆくことが重要となります。復活信仰は、信仰の成熟へと至るものです。第一の段階では、最初は信じられない作り話と思うことが多いです。第二の段階は、ペトロのように、その事実を調べますが、依然、困惑したままです。第三の段階は、個人的に、イエス様と霊的に出会い、これによって、復活の事実を受け入れる段階となります。第四の段階は、聖書の御言葉と復活の信仰を結びつけて、確かにしてゆきます。第五の段階は、復活された主に対して、献身し主に仕える為に人生を捧げてゆきます。復活の素晴らしさは、私たちに将来と希望と確かな主のご計画があることを伝えています。永遠の命、御言葉の確かさ、宣教の必要性を深く覚えましょう。その為には、空の墓のように、私たちの先入観や不信仰を空にする必要があります。そして心を空にしたら、キリストの御言葉を受け入れる器として、復活の御言葉を入れて行きませんか。私たちも、祈りと御聖霊と御言葉によって、主イエス様の十字架と復活を、さらに確信しましょう。そして、復活の証人として、祝福の基として、平和の使者として、生かされ、この使命に生きて行きませんか。

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