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0605先週の講壇_ヨハネ福音書7章25~36節「父なる神様のもとから遣わされた神の御子 」

牧師 松矢龍造


イエス・キリストが、どのようなお方であるか。その結論は、永遠の結果をもたらします。憶測や偏見ではなく、聖書を読み探求して判断することが大切です。

今日の御言葉では、 エルサレムの人々は、憶測と偏見の中にあったことが分かります。そしてナザレにいたヨセフの子イエスとして出身を知っていると言っていますが、 ご聖霊によってマリアの胎に宿って生まれた神の御子・救い主として信じることが出来ませんでした。

仮庵祭でエルサレムの神殿に来ている人々に対して、イエス様は、天の父なる神様から遣わされた者であると言われました。イエス様の地上での出身は知っていても、天の父なる神様から遣わされた、天からの視点を持っていない民衆であると言われています。イエス様の時とは、イエス様の十字架での死と復活の時のことであり、神の御子として真の栄光が現れる時のことです。その時、神様の時は、まだ来ていませんでした。ですから、この時、イエス様を捕えようとしても、失敗に終わります。誰も神様のご計画を阻止することは出来ません。イエス様は、父なる神様と同等であり、天で共におられたところから、地上に遣わされました。そして父なる神様のもとから来られて、また父なる神様のもとへ帰られる。それがイエス様の真の姿です。イエス様のことを捜しても、見つけることができないとは、一つは、主イエス様が地上から天に昇られるので、お会いすることが出来ないということです。そしてもう一つは、不信仰と邪悪の故に、天で主イエス様とお会いすることが出来ないということです。あくまでもイエス様を拒む姿が、ここにあります。古いことわざに「ことさらに見ない人ほど盲目はない。」あるいは「見ようとしてない人ほど、盲目な人はいない」。知らない、 分からない からで はなく、信じたくないから、信じないのです。生まれながらの人間は、神様の御霊に属することを受け入れません。誰もが、ご聖霊によってはじめて分かるのですから、分からないでいる人や、反対する人々に対して、信じている人々は、高ぶることも、自分を誇ることも出来ません。むしろ、主の恵みの中で、分からない人々や、反対する人々が、理解し、信じることか出来るように、ご聖霊の助けを求めて祈りましょう。また弁証してゆきましょう。その人が、信じるか否かは、その人と神様の責任です。しかしその人が信じられないようになっている否定的な内容に対して、弁証、弁明することは、すでに信じている人々の役割であり、責任です。

神様に愛されている皆さん、イエス様こそ、あらゆる問いの答えです。あらゆる混乱の答えです。そしてあらゆる悲惨さの中での、真の平安です。この全知全能

の父なる神様から遣わされた神の御子を、聖書とご聖霊によって見出し、信じて救いを頂きませんか。そして、まだ救われていない人々に、ご聖霊の力によって、愛の業をなし、主イエス様の証人となってゆきませんか。

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