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0626先週の講壇_ヨハネによる福音書 7 章 53 節 8 章 11 節 「 さばきと憐れみ 」

牧師 松矢龍造


人をさばき 自分が上だと思うことは甘い蜜であり 、 一度それをすると、その甘い蜜を求め続 けます。堕落した人間の弱さと罪の姿です。しかし自分に罪がある者は、本来、他の人を非難し、さばくべきではありません。むしろ、人をさばくことで、自分を罪に定めてしまうことになります。

律法学者たちやファリサイ派の人々が、イエス様を試して、訴える口実を得る為に、やっ

て来ました。彼らは姦淫の現場で捕らえられた女性を連れて来て真ん中に立たせました。律法に厳格なファリサイ派の律法学者であるならば、姦淫を犯した女性だけでなく、関係した男性も連れてこなければならなかったはずです。ですからユダヤ教の学者たちは、女性だけを逮捕することによって、律法を無視していたことが分かります。ですから彼らの意図は、姦淫に対する憤りよりも、イエス様に対する悪意に、いかに満ちていたかということが伺えます。

もしこの時、この女性を赦せば、それはあきらかに律法違反者として、イエス様を捕まえる

口実となります。逆に ローマの支配下のユダヤでは、死刑執行権がないのですから、石打の刑を認めるならば、ローマの法秩序を無視する犯罪者として、訴えることが出来ます。するとイエス様は、かがみ込み、指で地面に何かを書き始められました。

イエス様は、罪のない者が、最初に手を下すように、彼らに勧めました。人間が普遍的に持つ、原罪と罪の問題へと、彼らの目を向けさせました。人は皆、生まれながらに原罪を持って生まれてきます。そして年を重ねるほどに、罪の生活を重ねて来たことを自覚し、 年長者から始まって一人また一人立ち去って行ったのではないでしょうか。執行者たち自身が完全無欠ではないのですからです。イエス様は、この女性を罪に定めませんでした。 その女性の罪をイエス様が十字架で身代わりに負われるので、罪に定めないと言われたのでしょう。

そして これからは罪を犯してはならないと言われました。イエス様の寛容と峻厳の表われです。このイエス様の愛が、女性の心を開かせ、そのイエス様の慈愛の中で、感化をお与えになったのでしょう。誰も霊的な姦淫を犯しています。それは神様以外のものを第一とする偶像を持っています。また心の中で、淫らな思いで異性を見るなら、それは心の中で姦淫したことであるとイエス様は言われています。誰も、自分の罪をたなにあげて、人を非難してさばくことはできません。むしろ私たちは、自分の罪を父なる神様の御前に告白し、悔い改めて、イエス様の十字架の赦しと、復活の力を頂くことが、誰にでも必要です。そしてご聖霊様によって、御霊の実を頂いて、罪を犯し続けず、むしろ寛容と自制の実を結ばせて頂きませんか。

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