top of page
  • 執筆者の写真CPC K

0702先週講壇_ヨハネによる福音書 21 章 15-19 節「 もう一度立ち上がらせる復活の主 」

牧師 松矢龍造


ガリラヤ湖畔で、復活された主イエス様と弟子たちは、パンと魚とで朝食を食べました。その後、ペトロに対しては名指しで問われました。それは主イエス様を、大祭司の庭で三度、主を否んだペトロに対して、特別に三度、問いかけるものでした。この問いは、ペトロを責める為でなく、三度否んだペトロに対して、三度重ねて、その存在そのものを、なお愛しておられること。

そして人をとる漁師、すなわち使徒としての使命は変わっていないことを強調される為であったでしょう。加えて自信を失っていたペトロには、そのことが特に必要だと、主イエス様は思われたのではないでしょうか。ペトロのことを、何もかもご存じの上で、なお弱く愚かで醜い、こんな者を、なおこの存在をあるがままで、そのままで愛してくださるイエス様。こんなだめな者に、なお「わたしの羊を飼いなさい」と言われるイエス様の恵みと、ご恩寵の素晴らしさです。このことに驚きと感動を持って、この再召命を受け留めたのではないでしょうか。「両手を伸ばす」とは、ペトロも、イエス様同様、十字架で死ぬことを意味しています。またペトロの自由は奪われ、望まぬ場所に連れて行かれます。たとえそのようになっても、イエス様の十字架による死が、父なる神様の栄光をもたらしたように、ペトロの殉教も、神様への栄光をもたらすものとなることを、主はペトロに言われました。私たちも、自分の十字架を負って、すなわち神様の御心に従って苦しみを受けることを通して、神様が栄光をお受けになります。ペトロには、幾多の浮き沈みがありました。けれど彼は、ついに身をもってキリストの教会の堅固ないしずえの一つとなりました。彼は無学な凡人でしたが、神様によく用いられ、天国の鍵の保管者であるに、ふさわしい者と、主イエス様によって、変えて頂きました。そして主キリストから愛され主キリストへの愛以外に、主に仕える動機として、ふさわしいものはありません。

むしろキリストへの愛のない奉仕は、空しく空虚です。キリストは、良い羊飼いであり良い羊飼いであるイエス様は、私たち一人ひとりの為に命を捨てられました。この愛に、ご聖霊によって応えます。

私たちの為にも、十字架にかかり、復活されたイエス様、またご聖霊の力と再生。そして幾多の浮き沈みまで、万事益とされる父なる神様のご摂理によって、私も何度でも立ち直らせてくださいました。そしてあなたをも、何度も立ち直らせて下さる、同じ三位一体の神様です。このお方に、あなたも、主なる神様から力と愛を頂いて従って行きませんか。

閲覧数:1回0件のコメント
bottom of page