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0806_先週講壇_サムエル記上2 章12 節~36 節 「堕落か成長か」

牧師 松矢龍造


全世界を祝福する為に、イスラエルの民は、約束の地であるカナンに導かれました。そこが陸伝いで、ヨーロッパやアジア、アフリカに、神様の祝福を届けることが出来る場所であったからです。悪魔は、神の民が使命を果たすことを阻止する為に、神様に仕える者の家庭に狙いをつけました。今日の御言に登場する祭司にして士師でもあるエリの家庭も、その標的となりました。

祭司として仕えるエリの息子たちが、罪を犯し続けました。神様と人との間に立つべき祭司が罪を犯し続けるなら、その罪は決定的なものとなります。それは単なる一族の滅亡以上に、祭司制の限界や崩壊の危機に関わる重大なこととなります。私たちも同じですが、罪の影響は、罪を犯したその本人だけでなく、その影響が家族や関係者に及んで行きます。それは、昔も今も変わりません。そしてその立場が、大切であればあるほど、その罪の影響は、共同体全体に広がってゆきます。信仰的な環境に育っても、当人が自分で、その気にならないかぎり、神様の恵みは一向に分かりません。加えてエリが非常に年老いるまで、息子たちを甘やかし、息子たちの罪深い生き方を放置してきたのです。私たちにとっても、人生や家庭や仕事において間違っていると知りつつ放置している状況はないでしょうか。それは、その悪行に加わった人間と、同罪となるおそれがあります。親は子に対して、厳重で冷酷な扱いに陥ってもなりませんが、あまりにも寛大で、放縦に流れてなりません。人情にかまけて真理を曲げるようなことがあってはなりません。

もし曲げるなら、それは神様より、その子を大切にするようになってしまっています。エリ家は祭司の家系としては没落して行きます。この後に、祭司の家系であるエリ家は断絶し、ツァドクの家系が、エズラの時代まで、祭司の家系として続いて行きました。これに対して、少年サムエルは、すくすくと育ち主にも人々にも、喜ばれる者となって行きました。まさにエリの息子たちの堕落と罪に対して主ご自身が、レビ族の流れをくむサムエルを求められたのです。サムエルの成長の姿は、イエス様の成長されていった姿を予表するものでもありました。

けれど、この後、祭司にして預言者にして、最後の士師となるサムエルの子たちが、また堕落して行きます。キリストだけが、真実に、神様と人との間を仲介できる唯一のお方です。神様に愛されている皆さん、私たち皆、不完全者たちです。愛と義なる神様は、私たちを、謙遜できよい人に造り変えようと、愛の訓戒をなさいます。その愛の訓戒を、しっかりと受け留めて、堕落でなく、主にあって成長して行く者とされて行きませんか。

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