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0925先週の講壇_ヨハネによる福音書11章1~16節「死んだ者が命を与えられる」

牧師 松矢龍造


今日の御言葉の冒頭は「ある病人がいた」と始まります。「病気である」訳された原文の言葉は「無力である」「力ない」「弱々しい」という意味でもあります。人間の側では、無力であり、力ない状態のことが強調されています。神様は、あえて、無力で、弱々しいことになることを、私たちに許される場面があります。

イエス様は、この病が死で終わるものではなく、神の栄光の為であると言われています。神の民、すなわちキリスト者の病と死は、そのことを通して神様が栄光を表される。それは私達にも適応される御言葉です。イエス様が愛しておられることと、家族や本人が病気であることは決して矛盾してはいません。私たちの思いは、愛しておられるなら一刻も早く病人のところに駆けつけるだろうと思います。しかし主イエス様は、愛しておられるので遅れて行かれるのです。主の栄光の為に、あえて遅れて行かれるのです。病は、神様の御心を学ぶ大切な時です。

イエス様にとって、ヨルダン川の西側そしてエルサレム付近に行かれるということは、死の危険を意味していました。ですからイエス様にとって、苦い杯を飲み干し十字架にかかる決意なしにラザロをよみがえらせるために歩んで行かれることはなかったといことです。昼間とは、神様の御心と神様の導きに信頼することを象徴しています。逆に夜とは神様のいない暗黒のことであり、つまずく恐れがあることを象徴しています。

イエス様が「ラザロが眠っている」と言われたのは、ラザロの肉体が死んでいることを意味していました。しかしもう一つの意味は、イエス様はラザロを死からよみがえらせてラザロを起こすことを示しています。イエス様は、御自身が死と生を支配している御力を持っておられことを証明される為に、ラザロが死んだと言われたのです。

私たちは病や弱さの中で、先ずマルタとマリアのように病の癒しをイエス様に求めることが

重要です。そこで、人や医療が用いられるか、直接癒されるか、魂の癒しのみかは、神様の御心しだいです。イエス様に病の癒しを求めるなら、必ず魂の癒しが与えられ、御心に沿って肉体と精神と社会性の癒しが与えられます。またイエス様にある聖徒にとって、死ぬことは眠ることです。肉体の死と言う眠りの後に、復活という朝に目覚めさせて頂けるのです。そして神様は、私たちの一人ひとりに対して、その死と復活に関して、完全なご計画と目的と時を持っておられます。そのことを覚えて、信頼を持って、主に生と死を委ねることを教えられます。このイエス様による救いと新生に預かり、ご聖霊によって、この新生の恵みの素晴らしさを、隣人に対して、証してゆきませんか。この恵みによる新生は、どんな病や弱さをも超えて行くものです。むしろ病と弱さを通して、神様の御栄光に預かってゆきませんか。

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