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1002先週の講壇_ヨハネによる福音書11章17~44節「主イエス様は復活であり命」

牧師 松矢龍造


キリストにある永遠の命は二面性を持っています。私たちがキリストを信じるなら、すでに私たちの内に霊的に永遠の命が、キリストと御聖霊の内住によって与えられています。そしてもう一つは、いまだ永遠の体は与えられておらず、それは肉体の死後に与えられるものです。ですから、イエス様は一方では永遠の命を未来的なこととして語られますが、他方でイエス・キリストにおいて現在化されているものとして語られています。

イエス様は、あえてラザロの所に行くことを、死んで墓に葬られてから4日たった時に行かれることを、よしとされました。災害が起き、人間の生死の限界は72時間とされています。それは三日です。その三日を越える4日というのは、完全に死んだことを意味し、蘇生という現象ではないことを物語っています。

すべての人は肉体の死後、創造主なる神様が最後の審判をなさいます。イエス様はマルタに、そして全人類に向けて語られます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」これは永遠の死と、永遠の命を分ける、絶大な問いです。これにどう答えるかで、永遠の滅びと永遠の命、地獄と天国を分けるのです。神の御子イエス様を信じる者は、復活して永遠の命を得ます。マルタは、主イエスを神の御子メシアと信じていました。イエス様は、この後ラザロをよみがえらせることを知っておられました。なのに何故イエス様も涙を流されたのでしょうか。一つはラザロを深く愛しておられたからです。二つ目に罪の為に死が、人類の中に入って来たことへの憤りが含まれるでしょう。三つ目に悲しむ者と共に悲しまれるイエス様の共感の姿です。イエス様は、人間の憂いや患い、苦悩や悲しみに対して涙さを流されるお方なのです。

イエス様が「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。イエスは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言われました。イエス様は、ご自身が「よみがえりであり、命である」ことを証明なさいました。そしてイエス様を信じる者に、今、その場で、永遠の命を賜り、そして彼らを終わりの日に復活させることを保証するしるしとなりました。イエス様は命の創造者であるので、よみがえりも、復活も与えることが、お出来になられます。しかし死者をよみがえらせる奇跡をなされる時、人間の側に墓の石を取りのけることや包帯を顔からほどくこと命じられました。人間の側にできることは、させた上で、その及ばぬところのみを神様は御力によってなさいます。キリストの復活を信じて永遠の命に預かり、ご聖霊によってキリストにある永遠の命と復活の証人とされてゆきませんか。

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