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1024先週_ヨハネの黙示録22 章14~21 節「アーメン、主イエスよ、来てください」

牧師 松矢龍造


初代教会より、「マラナ・タ、主イエスよ、来てください」あるいは「アーメン、主イエスよ、来てください」という言葉は、礼拝の中で叫ばれてきました。「すぐに」とは、いつでもいう意味として受け取り、いつでも再臨のキリストを待ち望む姿勢でいなければならないことが示されています。

命の木を食して都の門を通って入れるのは、神の小羊なるキリストとその十字架を信じて、

神の小羊の血によって洗って頂き、罪から清くされた者のことです。また主イエス様の犠牲の愛に応えて、御聖霊の力を祈り求めて、日々、神様に忠実でいるように努めている者のことです。そして殉教者たちに対しても、自分の衣を洗い清める者と言われます。

これに対して都に入れない者がいます。ここで犬のような者とは、悪人のたとえです。悪人

の具体例として、魔術を使い、悪霊と交わる者。淫らな不品行や姦淫を行う者。人を殺す者。偶像を拝む者。偽りを好み、また行う者のことです。

ひこばえとは、木の切り株から生え出る若葉のことです。その例えからダビデの子孫として

生まれた主イエス様のことを言っています。そしてその先在性や神性、そしてメシア・救い主の預言の成就として来られたことを表わしています。さらにキリストは、神様と人との間の仲介者として、神として、人として、この世に来てくださったことの表われです。加えてこの再臨のキリストは、明けの明星とも言われています。明けの明星とは、夜明け前に光る金星のことであり、都の光であるキリストのことです。そして長い時代にわたる暗黒は終わり、夜明けが来ることに、保証を与える方がキリストであると示されています。

異端や異教や新興宗教は、聖書の言葉に付け加えたり、取り除いたりします。神様の永遠に

変わることがない聖書の言葉に、付け加えたり、減らしたりするなら、災いを受け、命の木を食べることが出来ず、天の都に入ることは出来ません。主イエス様の恵みによってのみ、この勝利の報いを受けることができます。そして「然り、わたしはすぐに来る」と言われるのは、問題、迫害、悪、不道徳な世界において、キリストは私たちに、信仰に留まり、忍耐するようにと呼び掛けています。三度「来てください」とありますのは、一方では、まだ救われていない人に対して、キリストのもとに来て下さいと、呼びかけられているのです。そしてもう一方である、すでにキリスト者である人たちには、キリストの再臨を願う祈りです。

天の都に迎え入れられるまで、地上における旅路があります。いつでも再臨のキリストが来

られてもよいように、「マラナ・タ、主キリストよ、来たりませ」と、御聖霊によって、目を覚まして信仰の旅路を歩んで行きませんか。

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