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1030_先週の講壇_ヨハネによる福音書12章20~36a節「陰府から復活して天に上げられた全世界の救い主」

牧師 松矢龍造


イエス様は、ギリシア人の来訪を通して十字架にかかる時が来たことを確信しました。すな

わちイエス様は、ユダヤ人に排斥され福音が異邦人に行く時が来たことを、他の群れである異邦人の初穂としてのギリシア人の来訪を通して、受け留めました。ギリシア人の来訪、それはユダヤ人が、主イエス様を拒絶した後、異邦人がキリストの福音を聞き、多くの人達がキリストを信じるという事実を予表しています。

イエス様が、十字架上で死に、復活することで、多くの人々が、罪の赦しと、永遠の命に導かれることが、たとえられています。すなわち一粒の麦が、地に落ちて、その形が亡くなり、成長して、多くの実が結ばれることに例えられています。

自分の命を憎むとは、どういうことでしょうか。原文では、「憎む」と訳された言葉は、「他のものに比べて軽視する」あるいは「より少なく愛する」そして「選ばない」という意味でもあります。ですから、永遠の命に比べて、地上での命を軽視する。あるいは、他の人々の命の為に、自分の肉体の命を、より少なく愛する。そしてキリストよりも自分を選ばないということでしょう。すなわち自分にとって有利な立場や安全、楽しみなどを、主キリストの為に、人々のために捨てるということです。恥辱の十字架によって、真の栄光が現れますが、死の時が迫ったことは人間としてのイエス様の面では苦難の極みとなります。しかしイエス様は、自分の十字架上での死の苦しみと死を通して、父なる神様は、ラザロをよみがえらせた先の栄光に加えて、キリストの十字架上の死と復活を通して、栄光を現わされます。この世の支配者とは、ヨハネによる福音書では、サタンとも呼ばれる悪魔のことです。サタンは、神様と神の民に敵対する、この世の勢力の指導者です。主イエス様は、十字架と復活によって、サタンとこの世の破壊的な力を粉砕されます。イエス様が地上から上げられるとは、イエス様が、私たちの罪の身代わりとなって十字架につけられて死に、陰府に降られ、そして三日後に復活されて、天に昇り、父なる神様と共におられることです。群衆は、イエス様に対する預言の一部分しか見ていませんでした。しかもそれも間違ったメシア観でした。群衆の考えるメシアとは、ダビデ王の一族が、永遠に支配するという地上的、軍事的、政治的メシアのことです。

光なるキリストが、私たちに示されている時にキリストを信じることが重要です。そして他の人が、私達の行動の中にキリストを見ることが出来るでしょうか。自分の力では、一粒の麦となって死ぬことは出来ません。御聖霊の力に与ることです。どうか、ご聖霊によって光なるキリストを信じ、光なるキリストのうちを歩み、キリストを輝かせることができますように。一粒の麦として自分に死に、神様の御心と御名の栄光の為、そしてキリストの為に生きてゆきませんか。

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