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11.28ヨハネによる福音書1 章29~34 節「世の罪を取り除く神の小羊なるキリスト」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年11月27日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


滅びから免れて、私たちが救いだされる出発点は、自分自身の罪を知ることと、その罪を救い贖うキリストを知ることです。今日の御言葉は、そのことを私たちに示しています。ジョン・オートバーグという方が「自分のことを知っていますか」というタイトルで、次のように言われていました。

「ある勇敢な武士が、有名な賢者のもとに行き、幸福と不幸は何かと尋ねました。すると賢

者は、説明するどころか、冷やかに笑いながら、『お前のような田舎侍の相手をしている暇

はない』と言いました。プライドが傷つけられた武士は、火のように怒って刀を抜き、『人

をからかった代価として、おまえの首を討ってやる!』と脅しました。

すると賢者は『それがまさに不幸である』と言いました。その武士は、怒りに支配された自分の状態を正確に指摘した言葉に驚き、怒りを鎮めました。刀を納め、偉大なことを教えてくれた賢者に頭を下げて感謝すると、賢者が短く答えました。『それがまさに幸福であ

る』。」

「この武士の問題は、自分自身を見ていなかったことでした。このように、人は自分で自分

の心を欺きやすいものですが、それは救いにとっては致命的なことです。自分自身を見つめ

ることが、知恵の始まりです。自分に対する認識が足りなければ、神様を知ることもできま

せん。ですから、偉大な霊的思想家たちは、自分を知ることと、神様を知ることの密接なつ

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ながりを強調しました。

アウグスティヌスは、『いつも変わらない主よ、私自身を知り、神を知ることができますように』と祈りました。フランスの大修道院長クレルヴォーのベルナルドゥスは、『自分自身を知れば、神を心から恐れるようになる』と言いました。自分の力では、神様に従って生きられないということと、イエス・キリストの十字架がなくては、滅びるしかないことを知ることこそ、救いの出発点であり、最も重要な知恵なのです。」

エルサレムの指導者たちが、荒れ野にいたヨハネの所に来てから翌日、自分の方へイエス様が来られました。ヨハネによる福音書だけが、この時のことを、ヨハネの証言として記しています。すなわちイエス様が、洗礼を受けられた時のことを、証しの言葉として残しています。

ヨハネは、イエス様を見て、29節「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。先ず

「世の罪」と言ったのは、キリストの救いと贖罪は、一民族に限られたものではありません。世の全ての民族、すべての民の為の救いであることを先ず確認しています。

次に「罪」とは、単数形が使われています。これは具体的な諸行為による罪というより、罪深い状態を念頭に置いています。そしてこの罪とは、人が創造主なる神様より離れ、神様に背いている霊的な状態のことであり、罪の基本姿勢のことを言っています。そしてそこから発する行為の全てを指しています。すなわち神様との不調和、自分自身との不調和、隣人との不調和、自然との不調和の全ての罪を含んでいます。

さらに、この世の罪を取り除く「神の小羊」と続きます。これは旧約聖書における小羊に関して、二つのことが背景となっています。一つは、おのおの自分の思いによって散らばっていた神の民を一つに回復するために、屠り場に黙々と引かれて行く、受難の僕としての小羊のようだと言われています。

イザヤ書53 章4~12 節「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに。わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、

毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。

わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は

不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者

と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物と

した。

彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者

とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、

彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに

数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人

であった。」

さらにもう一つの背景は、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りにおいて、祭司によって屠られる小羊のことをも意味します。過ぎ越しの祭りとは、エジプトにおいて、奴隷であったイスラエルの民を、解放して下さったことを覚えて、祝われるものでした。

出エジプト記12 章3節「イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。』

またレビ記16 章21 節「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移した」。

そしてコリントの信徒への手紙一5 章7 節「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」もう一つヨハネの手紙一2 章2 節「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」

30 節「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先

におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」ヨハネは、イエス

様が来られる前に、イエス様を指し示したので、「わたしの後から一人の人が来られる」と

言いました。しかしその方は、「わたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」

とは、万物の創造主であるので、わたしよりも先におられ、わたしよりもまさると言ったの

です。

31 節「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」ヨハネは、自分の母エリサベトと、イエス様の母マリアとは親類なので、人間であるイエス様は知っていたでしょう。しかし、ヨハネは、イエス様が洗礼を受けに来られた時、初めてイエス様が、神の御子・メシア・救い主であることを理解しました。

32 節33 節「そしてヨハネは証しした。『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになっ

た方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授

ける人である』とわたしに言われた。」

ヨハネは、イエス様に洗礼を授けた時、ご聖霊が鳩のように降ったのを見て、この方こそ、

神の子であると証ししました。34 節「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子で

あると証ししたのである。」

イエス様が洗礼を受けられたことを通して、私たちは次のことを深く受け留めましょう。

第一に、イエス様こそが、イスラエルいや世の全ての民を治めるために、神様がご聖霊を注

がれて選ばれた者であるということです。

第二に、私たちの罪を贖い、きよめ、新しい命に、ご聖霊によって入らせて下さるお方で

す。

第三に、創造主なる神様が、ご聖霊をイエス様に降らせたように、イエス様は、御自身を

信じて従う者に、ご聖霊を降らせます。

第四に、私たちに降って来た御聖霊は、私たちに生きる力と、イエス様による救いの教え

を説く力を与えて下さいます。

第五に、主が望んでおられることを行い、イエス・キリストのみに栄光を帰することに満

足するなら、神様は私たちを通して、大いなることをなされるでしょう。

最後に、世の罪を取り除く神の小羊なるイエス様によって、罪が赦された者は、人を赦す

ことで、最もその大きな赦しの恵みを実感してゆきます。ある方が「人を赦すということ」

で、次のように言われていました。「メソジストの創始者であるジョン・ウェスレーが道を

歩いていると、よく知っている人に出会いました。彼は、ウェスレーがよく知っている、も

う一人の友人と仲が悪く、互いに悪口を言うような関係でした。

ウェスレーが、彼に『まだ彼のことを憎んでいるのかい』と聞くと『そうだよ』と当たり

前だとでも言うように答えました。『もうそろそろ、赦してやったらどうだ』と悔い改めを

勧めましたが、彼はなおも歯ぎしりしながら、『他の人はみんな赦したとしても、あいつだ

けは死んでも赦せない』と暴言を吐きました。

するとウェスレーは『そうか。好きにするといい。でも一つ知っておくべきことがある。

きみは絶対に罪を犯してはならないということだ。そんなに人を赦せないのなら、きみも人

から赦されないだろうからね。だから、きみは罪を犯してはならない』と厳しく言ったそう

です。

ウェスレーの知人が、思慮のある人だったら、その言葉から何かを感じ取ったことでしょ

う。私たちは、過去はもちろん、これからも罪を犯しうる存在です。どんなに罪を犯さない

と誓っても、絶対的に罪を犯さない人などいません。自分が罪人であることを忘れてはなり

ません。そして、人の罪をたくさん赦すことができてこそ、自分の罪も赦されていることを

深く実感するのです。ですから、私たちは、赦せない思いを悔い改める、謙遜な心がなけれ

ばなりません。」

神様に愛されている皆さん、イエス様が世の罪を取り除く神の小羊と信じるなら、自分自

身の罪が赦されることを知ります。さらに隣人の罪を赦す事を通して、罪の赦しを深く実感

してゆきます。そして赦せない、あるいは罪責感に捕らわれている人たちに、キリストの赦

しの恵みを証ししてゆきませんか。お祈り致します。

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