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1120_先週の講壇_ヨハネによる福音書13章18~30節 「光に向かうのか夜に向かうのか」

牧師 松矢龍造


ヨハネによる福音書が、救い主・メシアなるキリストを表現する特徴の一つは、キリストを光としていることです。ところが、世は、その光を拒み、むしろ闇に向かう人がいました。イスカリオテのユダは、まさに、その一人でした。そして私たちは、暗闇を欲するのでしょうか。それとも光に向かう人なのでしょうか。

主イエス様は、イスカリオテのユダが、裏切るのは、聖書の預言の成就であるとして詩篇41

編10節を引用されました。昨日の友は、今日の敵というのは、今でも現実に、私たちの周りで起こりかねません。パン切れを浸して渡すことは、ユダヤの文化では、来賓に対して、特別な好意を示すしぐさです。イエス様が、この行動をされたのは、二つの意味がありました。一つは、裏切るユダの心を知りながら、なお悔い改めの機会をお与えになるという愛の表現でした。そしてもう一つは、愛情を示す行為でありますが、イエス様が、十字架の死を、自らの意志で選んだことを示すことでした。

ユダが、パン切れを受け取ったということは、イエス様の慈しみを受け取らずに、裏切りへと走ったことを物語っています。ユダは、邪悪な計画を放棄する機会を逃してしまったのです。そしてサタンに感化され、悪魔にまったく、心が占領されてしまったのです。12弟子の一人であり光の実を結ぶことを期待されていながら、闇の実を結んでしまったユダです。それは、旧約時代早くから堕落して裁かれてしまった北イスラエルに対して、光の実が期待されていたのに、闇の実を結んでしまった南ユダが、同じユダの名として、重ねられます。ユダは、他の弟子たちからは、裏切るようには見えませんでした。ユダは弟子たちが、安心して、お金を預けていた人だったからです。私たちのなかにも、まさかあの人が、と言われる響きに似ています。しかしそれは他人ことではなく、私自身が、まさかあの人が、となる可能性は、誰にでも大いにあります。この時、時間的な夜という意味であると共に、霊的に暗黒の世界に落ちて行ったことを、夜という表現で表されています。そして外の闇の世界に出て行くユダと、まことの光であるイエス様の周りに集う弟子たちの姿が、対照的に示されています。主イエス様の光と恵みに向かう人は、自分や世ではなく、光なるキリストを心に満たします。しかし夜に向かう人は、自分と世と悪魔に向かいます。神様に愛されている皆さん、生まれながらに原罪をもって生まれてきた私たちは、そのままでは夜に向かう存在です。しかし光なるキリストが来られて、この方に向かうなら、キリストの福音と、ご聖霊によって、自分自身ではなく神様の栄光と、神様の御心に聴き従うことを幸いとして、真の祝福に向かいます。あなたも夜に向かうのではなく、絶えず、光に向かう歩みとなりませんか。

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