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1219先週の講壇_ヨハネによる福音書1 章43~51 節「イエス様を通して天が開かれる」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年12月16日
  • 読了時間: 3分

牧師 松矢龍造


フィリポもナタナエルも、聖書を深く黙想していた人物たちでした。私たちも誰から導かれてイエス様に引き寄せられて行きますが、このイエス様について新旧約聖書全体からイエス様について、深く黙想することを通して、ご聖霊が私たちをイエス様のところに更に霊的に信仰的に導いてゆかれます。

生半可な知識が邪魔をする時があります。あるいは固定観念が、イエス様のことを信じて受け入れることを妨げることもあります。フィリポは「来て、見なさい」と答えました。議論するのではなく「来て見なさい」と。そうすれば分かります。原文では「来て、経験にしなさい」「来て、認めなさい」という意味でもあります。最初は、「ヨセフの子」というだけですから教義や教理が不十分であっても、主は私たちを招かれます。

いちじくの木の下で、ナタナエルは祈っていたのでしょう。しかもいちじくの木の下とは、人間の視界から完全に遮断されていた場所で、近づかなければ、ナタナエルの姿は、見えていませんでした。ナタナエルは、この後のイエス様の言葉からすると、旧約聖書のヤコブの夢のところを黙想していたのではないでしょうか。イエス様は多くの場面で、ご聖霊なる神様によって、私たちが読んで黙想している聖書を通して、私たちに語り掛けられるお方です。ですから、日々イエス様の導きと助けを受けたいなら、日々、神の御言葉なる聖書に触れ、黙想していることが重要になります。ナタナエルは、疑う者でありながら、追求し続ける人物でした。信仰が深まる過程において、疑う所を通ります。ナタナエルは、論より証拠、来て、イエス様を見て、イエス様のことを正しく、深く知ってゆきます。ナタナエルは、自分の姿が、いちじくの木の下で、見ることが出来なかったのに、その存在を知っておられた事。そして名前を知らないはずなのに、人となりまで知っておられたことを通して、「神の子」であり「王」であることを信じて認めてゆきます。イエス様は、私たちが、イエス様に出会う前から、私たち一人ひとりが何処にいて、どのような人物あるかを既に知って、顧みておられます。イエス様は、天と地の唯一の仲介者あり、罪によって隔たっている神様と私たち人間との間を、橋渡しするお方です。イエス様を通して天が開け、天におられる父なる神様のもとに、イエス様を信じる者は、行くことが出来るようになります。神様は、私たち一人ひとりの本当の姿を知っておられ、あなたにも、ご自分について来て欲しいと望んでおられます。

イエス様を深く知り洞察を深める為には、ご聖霊によって神の御言葉なる聖書を黙想します。そして祈りの中で、自分の罪を正当化せず、罪を認めて告白し、主イエス様の十字架による赦しを求め、復活の主から、自分の罪に打ち勝つ力を求めてゆきませんか。

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