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2021.10.10ヨハネの黙示録22 章6~13 節「見よ、主キリストは、すぐに来られる」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年10月9日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


歴史をどのように見るか、すなわち、この世にはいくつかの歴史観があります。一つは、上昇史観というものです。時間が経過するほどに、この世は良い世界になっていくという

歴史の見方です。別名はユートピアと言われます。しかし戦争が起こる度に、この上昇史観では、歴史を正しく解釈は出来ないと否定されて来ました。

二つ目は、下降史観です。この世は、時間が進むほどに悲惨になって行くというものです。別名は悲観主義です。これでは希望がありません。三つ目の歴史観は、仏教などに見られる円環史観というものです。前世と現世と来世が、円のように回っているという歴史観です。

しかし創造主なる神様が、聖書を通して示されている歴史観は、初めがあり、終わりがある。その間は、この世は上がったり下がったりを繰り返します。しかし世界の始めがあったように、終わりがある。この歴史の主は、神の御子イエス・キリストです。

英語で歴史は、history ですが、これはHis story の合成語で、彼の歴史、すなわち創造者であるキリストの歴史という意味だと言われています。ですから、紀元前をBC・キリスト以前と表現し、紀元後をAD ラテン語の主の年の略とし、神であり人なられたキリストが来られてから何年と表現しています。

黙示録では、キリストのことをアルファーであり、オメガである。最初であり終わりであると、三度繰り返し言われています。1 章8 節、21 章6 節、そして今日の御言葉である22 章13 節にもあります。創造者であるキリストが、最初と最後を司っておられる。また永遠に存在する完全で権威があるお方であるということを意味しています。そして万物を創造された同じお方が、時という舞台に幕を引かれるお方であることをも示しています。

これは旧約聖書のイザヤ書44 章6節と48 章12 節で、すでに預言されていました。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」「ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。」

それでは、もう一度ヨハネの黙示録22 章6 節「そして、天使はわたしにこう言った。『これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。』」

ここで、「すぐにも起こる」と言われています。7節にも、12 節にも「見よ、わたしはすぐに来る」と言われています。もうキリストが最初に来られてから、二千年も経過しています。ヨハネの黙示録が記されてから言えば、「すぐに来る」と言われているのに、1900 年も過ぎているではないかと言う人たちがいます。私たちも、「見よ、主キリストは、すぐに来る」という御言葉を、どのように受け留めればよいのかと思います。

しかし次の御言葉を忘れています。旧約聖書では、詩編90 編4 節です。「千年といえども御目

には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」新約聖書での御言葉では、ペトロの手紙二3章8 節9 節です。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」

遅いと思われるとしたら、それは創造主なる神様は、創造された人間が、一人も滅びないで、皆が悔い改めることを願っておられるからだと言われています。そして時間と空間を超越されている主なる神様の御前では、一日は千年のようであり、一日は千年のように、変わりはないのです。

7節「見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」この主がいつ来られてもいいように、この預言の言葉を守る者は、幸いなのです。この預言の言葉とは、慰めと警告が記されています。そして守るとは、原文では、「見張る」「保持する」「命令や戒めを遵守して実行する」という意味でもあります。

しかし肉の力では、守ることが出来ないので、「信じる」と意訳している聖書訳もあります。心を尽くして主なる神様を愛し、隣人を自分と同じように愛する。これは肉の力では、完全に守ることは不可能です。むしろ律法によって罪の自覚が深まるだけです。ですから、自分の罪を主の御前に告白して、神の御子の十字架と復活は、私の為であったと信じるなら、罪が赦されます。そして御聖霊に拠り頼み、その力によって、この預言の言葉を実行する者は幸いなのです。

8節9 節「わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。すると、天使はわたしに言った。『やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。』」

ヨハネの黙示録が記されていた時代には、天使礼拝なる異端が存在していたという背景があります。加えて、ヨハネの黙示録の強調点の一つは、創造なる神様にして救い主なる神様に、天上でも、地上においても、礼拝を捧げるということです。礼拝は、モーセの十戒の第一と第二を守ることです。

出エジプト記20 章3~6 節「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。

わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」礼拝は、常にキリスト者の信仰生活の中心です。

10 節「また、わたしにこう言った。『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。』かつて旧約聖書ダニエル書12 章9節では、封じておけと言われていました。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。」

このダニエルの時には、まだ世の終末が来ていないからです。しかしヨハネの黙示録では、もう終わりが、すぐにでも来るので、秘密にしておいてはならないのです。全世界の人々に

宣べ伝える必要があります。

11 節「不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。」イエス様の言葉では、信仰を持って聴く耳があるかないかが、明らかにされると言われています。マタイによる福音書25章29 節30 節「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

12 節13 節「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファーであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」一度来られ、再び来られるキリストに対して、私たちの人生を、全面的に懸けるものでありたいのです。ならば、主の預言の言葉を、信頼し、心を止め、信じ、守ります。

アルファーであり、オメガ、最初の者にして、最後の者であるお方が、再び地上に来られて、世の終末となります。このお方のみに礼拝を捧げ、主の御言葉を守る者は幸いです。生まれながらの肉の力では守れませんから、ご聖霊様に助けを求め、この預言の言葉である神様と人を愛して、主の御栄光を表し、御心に聴き従う歩となりますように。

最後に、キム・ソテクと言う方の「神様の直行路線」という内容を受け留めます。「空港に行くのに最も便利な交通手段として、空港リムジンバスがあります。カーナビが一般的でなかった頃にリムジンバスに乗ったことがあるのですが、その時代でも、バスには無線通信装置ついていました。

バスの運転手は、車が渋滞しているという連絡を受けて、混んでいない道を通りました。それで、飛行機の搭載時間よりも、かなり余裕をもって空港に到着できました。タクシーよりも値段も安く、他の交通機関のように多くの駅を経由する必要もないので、空港を往復するには、最高の交通手段です。

このように、空港という目的地に到着する最も効率の良い方法があります。どのような手段を選ぶかによって、正確な時間に到着できることも、定刻に到着きないで困ってしまうこともあります。

クリスチャン、神様の御心に従って生きる道にも、多くの分かれ道があり、障害物があります。私たちの限られた知識と経験では、毎日起こる、あらゆる状況にしっかり対応できない場合があります。

神様は、そんな私たちが最も安全な道を行くことができるように、御言葉を与えてくださいました。旧約のイスラエルの民が、祭司を通して神様の御心を尋ねた時、「光」と「完全さ」を意味するウリムとトンミムによって導かれるように、私たちが祈りによって、神様の御心を尋ねるとき、御聖霊が導いて下さいます。不必要な試行錯誤繰り返さず、神様が願われる道に直行させてくださいます。神様に尋ねて進むなら、失敗することはありません。」

神様に愛され、主にあって愛する皆さん、御言葉が指し示す道を、祈りつつ、御聖霊の導きに従いながら、歩んでいきませんか。お祈り致します。


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