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2021.10.13民数記19 章1~22 節「汚れを清める水」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年10月17日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


今日の御言葉には、何度も「汚れ」と言う言葉が出てきます。汚れとはどんなものなのでしょうか。一般的に「汚れ」とは、人や動物や物が、祭儀的に、神様に受け入れられない状態のことです。

そして汚れた者は、共同体と臨在の幕屋を汚さない為に、そこから離れなければなりませんでした。汚れは、宗教的なことですが、時に衛生上と結びついている場合もあります。さらに言えば、旧約の汚れの概念は、ある程度まで「罪」とは、区別されており、時として、該当者に休息の機会として与えられるという積極的な効用がある場合があることも、見逃してはならないことです。たとえば、出産後の婦人に対しての例があります。

レビ記12 章2~5 節「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。

産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。

女児を出産したとき、産婦は月経による汚れの場合に準じて、十四日間汚れている。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な六十六日の間、家にとどまる。」

荒野を旅するイスラエルの民にとって、汚れのことが言われています。これは荒野を旅している時は、汚れたものに触れる機会が、定住している時よりもずっと多いからです。そして神様との交わりから締め出されない為に、日々汚れから、きよめられる必要がありました。

さらに言えば、非常に多くの人々が、先のコラたちの反逆によって死んだので、この汚れを処理するのに、普通の方法では十分ではありませんでした。

旧約時代、人の死体に触れた者は、七日間汚れるとされています。動物の死体に触れた者は、1日汚れた者とされました。どうして死体に触れると、宗教上の汚れとなるのか。それは死は、罪の最終的な結果だったので、汚染が最も強いとみなされた故でしょう。そして死体に触れないことは、衛生学上にもかなったことでした。

通常の罪の贖いに関しては、幕屋の入り口の前にある祭壇で捧げられ、屠られたり、焼かれたりします。ですから汚れを清める方法は、一般の生贄の奉献とは異なっています。

汚れを清める為には、主の命じられる規定に沿って、きよめの水が作られました。きよめの水を作る為に、先ず一般の仕事に使われたことのない雌牛でなければなりませんでした。しかも無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛でした。

レビ記22 章19 節20 節「主に受け入れられるように傷のない牛、羊、山羊の雄を取る。あなたたちは傷のあるものをささげてはならない。それは主に受け入れられないからである。」

続いて赤毛とありますのは、赤の色は、清める力のある血の色と関連すると思われます。この赤毛の雌牛を祭司エリアザルに引き渡します。大祭司であるアロンは、臨在の幕屋から離れることが許されていなかったので、アロンの子であるエルアザルが、その牛を宿営の外に引き出しました。

そして雌牛を屠って、その血を神の臨在する幕屋の方向にまきました。血は命の源と考えられ、清める力があるとされました。七度とありますのは、7は聖書では完全を表す数字であり、幕屋に向かって血を振りまいたことが完全になされたという意味でしょう。

そして牛の川も肉も血も胃の中身も共に焼きました。他の献げ物の場合は、血が抜かれますが、この場合は血は抜かれませんでした。これは雌牛を焼いた灰が、後に清めの儀式に使われる為に、血も一緒に焼かれたのではないかと考えられます。

そして焼かれた灰は集められ、宿営の外の清い所に置かれました。続いてこの灰に新鮮な水が加えられ、きよめの水が作られました。新鮮な水と訳された原文の言葉は、湧水あるいは流れの水のことで、生き生きとした水でした。ですから川や泉から汲んで来た水を、雌牛を焼いた灰と混ぜて、清めの水となります。

加えて、きよめの儀式に用いられたのは、杉の枝が用いられました。メソポタミヤでは、芳香を放つ杉の枝は、水による清めの儀式によく使われましたが、ユダヤでは、杉の枝の赤みがかった色のために選ばれたのでしょう。緋色も含めて、血の色でもある赤は、命の色でした。

さらにピソプという植物も用いられました。ヒソプは、白い花を咲かせ、葉は甘い香りがします。その柔毛状の茎と葉には、液体が付着しやすいので、宗教儀式の際に、水や血を振りかける道具として使われることが多いです。

汚れは、時として、そのままにしておくと、死の危険が伴いました。出エジプト記19 章10~15節「主はモーセに言われた。『民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。

民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。

その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、民に命じて、『三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない』と言った。」

清めの為の灰を作る際に、灰は血を含んでいるために、一方では汚れを清め、他方では灰を準備する者たちを汚すと考えられました。これを赤い雌牛のパラドックスと呼ばれることがあります。さらに神様に捧げられた雌牛は、聖なるものと見なされ、聖なるものに触れた人は、祭儀的に汚れているとみなされることがあります。レビ記6 章20 節21 節「この献げ物の肉に触れる者はすべて聖なるものとなる。また、この献げ物の血が、これを振りまく祭司の衣服にかかったならば、その衣服は聖域において洗い清めねばならない。また、献げ物を煮るために用いた土鍋は打ち砕く。しかし青銅の鍋で煮る場合は、鍋を磨き、水でゆすぐ。」

これらは聖なるものに触れると、自分の罪と汚れが露わになるということなのかもしれません。このような汚れに対する、きよめの儀式が記されているのは、罪と同様に、汚れも、私たちの中途半端な態度に対して、とどめを刺すものです。罪の汚れは、誰もそのままにしておいてはならないのです。

現在においても、自分の罪を告白するとき、血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられ、神様および神様の民との交わりが回復され、真の命にあって新しい歩みをすることに繋がります。キリストという犠牲は、宿営の外を意味するエルサレムの都の外のゴルゴタの丘で十字架につけられました。ヘブライの信徒への手紙12 章24 節「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」

新約聖書のヘブライ人への手紙を通して、様々なきよめの儀式は、人間の良心まで、きよめるものではないと言っています。ただ真の贖い、またきよめとなるイエス・キリストを指し示すのが、旧約聖書のきよめの儀式です。ヘブライの信徒への手紙9 章9~12 節「この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。

これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

加えて、天幕や部屋のような閉ざされた空間の中では、たとえ直接死体に触れていなくても、汚れたと見なされました。

また汚れた者に、きよめの水を振りかけた者も汚れたとあります。これらは衛生学上のことも重なっているのではないでしょうか。

現在の汚れということは、不信仰や不真面目、偽りの教えや不道徳な者たちの仲間になるなら、霊的に汚れてしまいます。また異端の教えや、法律を破る信徒が入れば、訓練規定の適応が必要となります。本人が真に悔い改め、共同体に霊的な汚れが広がらない為、そして主の御名が汚されない為に、主にあって戒規の執行が必要となります。

さらに死体に触れた者を、精神的に支えるためになされることが、旧約時代は、きよめの水による儀式が用いられました。そして死のイメージに対抗する物として、生命を宿した血、また生命力を象徴する杉の木の枝、そしてきよめの効用を持つヒソプでした。

新約時代は、キリストの血と犠牲の命です。フィリピの信徒への手紙2 章6~8 節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

罪の汚れから、絶えずキリストの十字架と、御聖霊様による水のような洗いを通してきよめられますように。また罪の告白と、赦しを求める祈りを通して、絶えず神様と人々との関係が正しい歩みとなるように、御聖霊の助けを求めて行きませんか。お祈り致します。

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