2021.10.17ヨハネの黙示録22 章14~21 節「アーメン、主イエスよ、来てください」
- CPC K
- 2021年10月17日
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牧師 松矢龍造
起
一年以上にわたって連続講解説教をしてまいりましたヨハネの黙示録ですが、本日が最終となります。難解な書であり、不十分な解き明かしであったことを、主にあってお赦しください。しかし希望が丘教会が、創立60 周年を迎えた年に、今まで一度も講解説教がなされてこなかったヨハネの黙示録を終了できますことは、実に感謝なことです。また皆様の御忍耐にも感謝いたします。そして主の憐れみの中で、終えることが出来ることを感謝致します。
このヨハネの黙示録の特徴は少なくても5つあります。一つは、迫害やプレッシャーの中にいる人たちにとって、希望の書となります。二つ目に、慰めの書でもあります。さらに三つ目に、将来を預言する約束の書でもあります。四つ目に、地上と天上における礼拝の書でもあります。そして5つ目に警告の書でもあります。
承
初代教会より、「マラナタ、主イエスよ、来てください」あるいは「アーメン、主イエスよ、来てください」という言葉は、礼拝の中で叫ばれてきました。そしてヨハネの黙示録は、礼拝で朗読されて来ました。
そして「然り、わたしはすぐに来る」と言われるイエス様の言葉に対して、「すぐに」とは、い
つでもいう意味として受け取り、いつでも再臨のキリストを待ち望む姿勢でいなければならないことが示されています。
ヨハネの黙示録を最初に受け留めたのは、初代教会で迫害を受けパトモスと島に流刑になった使徒ヨハネです。そしてこれを最初に読んだ小アジアの七つの教会の聖徒達でした。それ以来キリスト教徒たちは、天の都すなわち天の故郷を目指し、多くの殉教者を目にしてきました。
三世紀最大の神学的著作者と言われるテルトゥリアヌスは、アフリカのカルタゴで、ローマ軍の百卒長の子として生まれました。法律、弁辞学、ギリシア語古典など、当時としては、最高の教育を受け、ローマに出て、学職、教養に富んだ法律家として有名になりました。
AD194 年頃のある日、ローマの円形劇場でキリスト教徒たちが、火刑や十字架刑や猛獣の餌食にされる等の残虐な処刑にあい、殉教の死をとげるのが、見世物にされているのを目撃しました。
彼らキリスト者たちの姿に大変心打たれました。無名の男女や奴隷たちが、どうして、このように死の恐怖を見事に克服することができるのか、何が彼らを、このような高い道徳性にまで引き上げたのかと、深く考えるようになりました。
遂に回心に導かれキリスト教徒となりました。彼はこれに関して「この驚くべき忍耐を目撃したものは誰でも、ある不安に襲われる。何が彼らに、この忍耐を与えたかを詮索せずにはおられなくなり、その真理を発見すると、すぐに自らもこれに従うのである。」「この真理を把握したからこそ、彼らは故郷の家に帰るように、死につくことができるのである」と述べています。
彼はカルタゴに帰り、キリスト教の指導者あるいは司祭となり、多くの神学書を著わすものとなりました。
転
それではもう一度ヨハネの黙示録22 章14 節「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」
ここで、命の木を食して、都の門を通って入れるのは、自分の衣を洗い清める者となっています。
これは神の小羊なるキリストとその十字架を信じて、神の小羊の血によって洗って頂き、罪から清くされた者のことです。ヨハネの手紙一1 章7 節「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
さらに主イエス様の犠牲の愛に応えて、御聖霊の力を祈り求めて、日々、神様に忠実でいるように努めている者が、自分の衣を洗い清める者です。いわば救の実また、証拠としての忠実な行いのある者です。そして殉教者たちに対しても、自分の衣を洗い清める者と言われます。これらの人々は、すべて幸いな者な者たちです。
これに対して、都に入れない者がいます。15 節「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」ここで犬のような者とは、悪人のたとえです。悪人の具体例として、魔術を使い、悪霊と交わる者。淫らな不品行や姦淫を行う者。人を殺す者。偶像を拝む者。偽りを好み、また行う者のことです。さらに申命記23 章18 節19 節では「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。
また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。いかなる誓願のためであっても、遊女のもうけや犬の稼ぎをあなたの神、主の宮に携えてはならない。いずれもあなたの神、主のいとわれるものだからである」とあります。
加えて、汚れた異邦人についても言われています。マタイによる福音書15 章26 節27 節「イエスが、『子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、 女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』ここで不信仰者が犬と言われますが、悔い改めて主を信じるなら、都に入れて頂けます。
そして律法主義すなわち行いによって義とされると考えているユダヤ主義者のことも犬と言われています。フィリピの信徒への手紙3 章2 節「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」
続いてヨハネの黙示録22 章16 節「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
ひこばえとは、原文では、根元や物事の源泉、あるいは先祖や根という意味でもあります。端的には、ひこばえとは、木の切り株から生え出る若葉のことです。その例えからダビデの子孫として生まれた主イエス様のことを言っています。そしてその先在性や神性、そしてメシア・救い主の預言の成就として来られたことを表わしています。さらにキリストは、神様と人との間の仲介者として、神として、人として、この世に来てくださったことの表われです。
加えてこの再臨のキリストは、明けの明星とも言われています。明けの明星とは、夜明け前に光る金星のことであり、ここでは、都の光であるキリストのことです。そして長い時代にわたる暗黒は終わり、夜明けが来ることに、保証を与える方がキリストであると示されています。
キリストの輝きが、神様御自身の永遠の輝きです。キリストは義の太陽です。マラキ書3 章20節「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。」
17 節「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
御聖霊と教会の人々が、礼拝の中で再臨のキリストに対して、「来てください」と繰り返し祈ります。義に飢え渇き、キリストの救いを待ち望み、罪の赦しと永遠の命を求める者は、キリストの真実を信じる信仰を通して、価なしで、救いと都に入れる権利を受けることができます。
18 節19 節「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」
異端や異教や信仰宗教は、聖書の言葉に付け加えたり、取り除いたりします。神様の永遠に変わることがない聖書の言葉に、付け加えたり、減らしたりするなら、災いを受け、命の木を食べることが出来ず、天の都に入ることは出来ません。
20 節21 節「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」
主イエス様の恵みによってのみ、この勝利の報いを受けることができます。そして「然り、わたしはすぐに来る」と言われるのは、問題、迫害、悪、不道徳な世界において、キリストは私たちに、信仰に留まり、忍耐するようにと呼び掛けています。三度「来てください」とありますのは、一方では、まだ救われていない人に対して、キリストのもとに来て下さいと、呼びかけられているのです。そしてもう一方である、すでにキリスト者である人たちには、キリストの再臨を願う祈りです。
結
イギリス人で、「天路歴程」の著として知られるジョン・バニヤンという方が16 世紀にいました。彼は破損した鍋や釜などを修理する鋳掛け屋で、教育はほとんど受けていませんでしたが、ピューリタン・清教徒革命軍に従軍した時の深刻な経験と、敬虔な新妻の感化で、キリスト教徒となり、体当たり的な聖書の読み方により、信仰が深められ、やがて非国教徒の人々に推されて説教をするようになりました。
1660 年に王政が復活すると、彼は法を犯して説教したというかどで、捕らえられ投獄されました。「国教徒にも説教する権利がある」強く主張しましたが、容れられず、かえって1661 年から12 年間にわたって獄に繋がれました。その投獄中、書かれた代表作品が「天路歴程」で、1678 年に出版されました。
これは信仰者の歩を、巡礼の旅にたとえられたもので、クリスチャンという主人公が、滅亡の都市から逃れ出て、落胆の沼や虚栄の市における誘惑に打ち勝って、さらに悪魔と悪戦苦闘し勝利を得て、天の都に迎え入れられるという話です。
素直な易しい生き生きとした文体で書かれ、イギリスでは万人の書となりましたが、英文学の作品中で、ロビンソン・クルーソーや、ガリバー旅行記と並んで、最も多くの言語に翻訳され各国で読まれています。
神様に愛されている皆さん、天の都に迎え入れられるまで、地上における旅路があります。いつでも再臨のキリストが来られてもよいように、「マラナタ・主キリストよ、来たりませ」と、御聖霊によって、目を覚まして、信仰の旅路を歩んで行きませんか。お祈り致します。

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