2021.10.20民数記20 章1~29 節「主がすべての導き手である」
- CPC K
- 2021年11月1日
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牧師 松矢龍造
起
神様が立てられた指導者にも失敗があり、役割にも終わりがあります。しかしそれでも、救いの御業が進んで行くのは、主なる神様が、すべての導き手であるからです。約240 万人という人類史上最大の民族移動がなされるのは、人間の力だけでは無理です。全ては、主の導きなくして出来ません。
今日の御言葉では、モーセの失敗や、女預言者であり姉でもあるミリアムの死と、初代大祭司である兄アロンの死、そしてエドム王の拒否が記されています。どれもイスラエルの民の移動の為には不利なものだらけです。それでも、約束の地への旅が続いています。それは主なる神様が、民を導いておられるからです。
様々な人間の失敗や罪がありましても、歴史上、救済史が続いています。それはまさに、主なる神様が導いておられるからです。
承
ですから、私たちを救いに導かれる神様から離れてはなりません。チェ・ソンウンという方の「生ける水を飲みなさい」から「神様のパズルの1 ピース」というタイトルで次のよう言われていました。「私たちが神様をまだ知らなかったときも、神様は私たちのことを誰よりもよくご存知で、私たちのもとに来てくださいました。どんな過ちや罪を犯したとしても、神様はご自分を尋ね求める者たちから、決して顔を背けず、直接訪ね、会ってくださいます。
私のところに来てくださった主に出会いさえすれば、遠い昔あきらめていた夢を思い出すことができます。その夢が過去に願っていたものと全く同じとは限りませんが、神様はご自分の方法で、その夢を抱かせ、成就してくださいます。ガリラヤ湖で漁をしていた漁師を、人間をとる漁師にし、イスラエルの回復だけを望んでいた者に、神の国を建てるビジョンを見せてくださいました。私たちすべてに対する神様の驚くべき愛とビジョンがあります。そのビジョンは、決して痛んだり、腐ったりしません。
『パンセ』を書いた哲学者のパスカルは、神様は私たちのうちに神様だけが満たすことのできる空間を造っておかれたと言いました。お金や物、健康という空間は、私たちの努力で満たすことができても、神様が別に造っておかれたという空間は、神様だけが満たすことができます。パズル100 ピースのうち99 ピースがはめられても、残りの1 つを失くしてしまえば完成できないように、神様が持っておられる1 ピースがなければ、私たちの人生に満足はありません。その1 ピースは、私を最も愛しておられる主に出会ったときに満たされます。私の礼拝する対象が変わり、私の人生の渇きを解決する方法が変わることが、真の回復なのです。」
転
今日の御言葉は、イスラエルの民が、約束の地であるカナンに入る直前の時のことです。おそらく出エジプトしてから数えて、40 年目に、女預言者であるミリアムが死に、荒れ野に葬られました。
この場所は、ツィンの荒野であり、共同体に飲ませる水がありませんでした。すると再び、民の中で徒党を組んで、モーセとアロンに逆らいました。そして3 節「民はモーセに抗弁して言った。『同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。』」
同胞が主の御前で死んだというのは、反逆者コラとその支持者たちが、大地に飲まれて死んだ時のことか、あるいはエジプトから出た初代の人々が荒れ野での40 年の間に死んだことを言っているのでしょう。4節5節「なぜ、こんな荒れ野に、主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。
なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」
この内容は、かつて初代の人達が言った不平や不満と同じ内容です。古い罪は、最期まで姿を表します。ですから決して警戒を怠ってはならないことを教えられます。人間の罪は、繰り返されるのです。昨日、誘惑や攻撃に打ち勝っても、また今日、そして明日と、地上を歩む限り、誘惑と攻撃は、止むことがありません。
モーセとアロンは、前と同じように、主に祈り訴えます。6~8 節「モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。主はモーセに仰せになった。『あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。』」
するとモーセは、命じられた通り、主の御前から杖を取りました。10 節11 節「モーセは、命じられたとおり、主の御前から杖を取った。そして、モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。『反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。』モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。」
ここで気になることが二つあります。一つは、水を出す主語がありません。「この岩から、あなたたちのために水を出さなければならないのか。」まるでモーセが、岩から水を出すような言い方です。本来は、主御自身が、岩から水を出されるのであって、その為にモーセと杖が用いられたに過ぎません。そしてもう一つは、主が言われたのは、「岩に出せと命じなさい」と言われただけです。にもかかわらず、モーセは、杖で二度岩を打つというよけいなことをしています。
水はほとばしり出て、共同体も家畜も水を飲むことが出来ました。しかし主はモーセとアロンに対して、不信仰であると叱責されています。12 節「主はモーセとアロンに向かって言われた。『あなたたちは、わたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。』」
モーセとアロンは、主に栄光を帰さず、不従順に岩を二度打ち、主の聖なることを示しませんでした。この失敗により、モーセもアロンも、会衆を約束の地に導き入れるという役割は出来なくなりました。指導者の不従順に対する厳しい罰です。
続いて、カデシュからエドムの王に対して、モーセは使者を遣わして伝えました。エドムの先祖であるエサウとイスラエルの先祖であるヤコブは、兄弟であったので、私たちイスラエルの民を、エドム領土内を無事に通過させて欲しいと頼みました。
しかしエドムの王は、イスラエルの民が、エドムを攻撃したり、農作物を荒らしたりすることを恐れて、領地内を通過することを拒否しました。これもメリバの水での主とイスラエルの民が争った結果と見る事が出来ます。
主との調和を失うなら、隣人との関係も不調和となります。
そしてガデシュをイスラエルの民が旅立って、ホル山に着きました。そしてアロンの死が告げられます。23~26 節「ホル山はエドム領との国境にあり、ここで、主はモーセとアロンに言われた。『アロンは先祖の列に加えられる。わたしがイスラエルの人々に与える土地に、彼は入ることができない。あなたたちがメリバの水のことでわたしの命令に逆らったからだ。アロンとその子エルアザルを連れてホル山に登り、アロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せなさい。アロンはそこで死に、先祖の列に加えられる。』」
アロンの衣とは、大祭司の衣服のことです。レビ記8 章7~9 節「そしてアロンに長い服を着せ、飾り帯を付け、上着を着せ、更にその上にエフォドを掛け、その付け帯で締めた。次に胸当てを付けさせ、それにウリムとトンミムを入れた。また頭にターバンを巻き、その正面に聖別の印の黄金の花を付けた。主がモーセに命じられたとおりである。」
主はある人に使命を与えられ、そしてその役割には終わりがあります。そしてその使命は、次の人に受け継がれていきます。イスラエルの民は、アロンの死に対して、30 日の間、アロンを悼んで泣きました。通常の喪葬の期間は7日間ですが、イスラエル民は、アロンの死を30 日間悼みました。それは最大の敬意を示しています。
後にモーセの死に対しても、30 日間であったと記されています。申命記34 章8 節「イスラエルの人々はモアブの平野で30 日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。」
結
ミリアム、アロン、そして次にモーセと、次々に役割を終えて、次にその使命が継承されて行きます。私も先代の牧師から受け継ぎ、そしていつか次の牧師に、この希望が丘教会や他の使命を継承してゆきます。けれど願わくば、不信仰や不従順、あるいは主の聖なることを示すことに失敗することになりませんように。
民の不平に対して、怒ってしまう弱さを、モーセやアロン同様、持っています。ですから「主よ、どうか、命じられたことと、異なることをすることがありませんように。岩に向かって命じるだけでよいのに、怒って岩を二度打つようなことをすることがありませんように。あくまで主の命に忠実になれますようにと、御聖霊様に助け下さいと祈るばかりです。
最後に、キム・ハンヨという方の「罪に対する覚悟」という内容を受け留めます。「ローマの信徒への手紙8 章1~2 節に『こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が、罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則が、罪と死の法則から、あなたを解放したからです。』とあります。
ところが、多くの人が、このみことばを口実にして、臆面もなく罪を犯します。罪を正当化し、自分の責任を回避するのです。これは実に大きな誤解であり、福音を理解できていない無知な行いです。ノンクリスチャンの考える罪は、法律に反するようなことですが、クリスチャンにとっての罪は、愛する人を傷つけることも含まれます。配偶者を裏切ること、隣人を愛さないこと、目に入れても痛くないはずの子どもたちの心を傷つけるようなことも罪です。
ですから、人をさばかないと世に向かって宣言したクリスチャンは、罪を厳格に取り扱うべきなのです。またクリスチャンは、ノンクリスチャンよりも罪を憎み、心から悔い改めなければなりません。クリスチャンは、イエス・キリストにあって、もはや罪に定められることはないので、恐れのためではなく、神様との人格的な愛の関係の中で、罪を考えなければなりません。
クリスチャンが、罪に打ち勝つことのできる根本的な力は『私のためにいのちを与えてくださった主を裏切るわけにはいかない』というような、主への愛にあります。それが、罪と死の法則から解放されたクリスチャンが、罪の行いを根絶し、聖い姿に聖徒していく方法なのです。」
主に愛されている皆さん、恐れでなく、主から愛され、その愛に応えて、御聖霊の力を祈り求め、不信仰や不従順、また主の聖なることを表わさないような歩みをすることがないように、してゆきませんか。お祈り致します。

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