2021.10.24ヨハネによる福音書1 章1 節「初めに万物の創造者キリスト」
- CPC K
- 2021年11月1日
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牧師 松矢龍造
起
今日の主日から、ヨハネによる福音書の連続講解説教となります。今回ヨハネによる福音書が導かれた背景が三つあります。一つは、ここ何年か、難解であるローマの信徒への手紙やヨハネの黙示録を扱いましたから、比較的分かりやすい福音書が導かれたということです。
二つ目に、希望が丘教会の主日礼拝において、福音書中、ヨハネによる福音書だけが連続講解説教がなされて来ませんでした。そして三つ目に、ヨハネの黙示録の次に、同じ著者であろうと言われる使徒ヨハネの福音書を扱うことは、つながりとなるという点がありました。古代キリスト教の代表的な神学者の一人はオリゲネスですが、ヨハネによる福音書を次のように言われています。「福音書は、全聖書の完成であるように、ヨハネによる福音書は、福音書の完成である」。また宗教改革者の一人・マルチン・ルターによれば「ヨハネによる福音書は、3章16 節をはじめ福音の精髄である」と言いました。3 章16 節は、キリストの福音を凝縮して言い表したものです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
承
四つある福音書中、マタイによる福音書は、王であるイエス様のことを強調しています。またマルコによる福音書は、僕なるキリストを強調しています。そしてルカによる福音者は、キリストが人となられたことを強調しています。これらに対して、ヨハネによる福音書は、イエス様が神である、その神性を強調しています。
中心聖句は、20 章31 節です。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
ヨハネによる福音書が書かれた目的は、特に主イエス様が、神の子であることと、主イエス様を信じる全ての人は、永遠の命を得るということを、はっきりと証明することです。展開としては、三つの大きな区分があります。一つ目は、1 章1 節~2 章12 節までは、神の子であるイエス様の誕生と、公生涯への準備です。二つ目は、2 章13 節~12 章50 節までで、イエス様のメッセージと宣教に関してです。そして三つ目は、13 章1 節~21 章25 節で、神の子なるイエス様の十字架の死と復活です。
転
ヨハネによる福音書の1 章1 節は、創世記1 章1 節と重ねて読むことがふさわしいです。「初めに、神は天地を創造された。」初めに、万物を創造されたのは言と呼ばれるお方です。原文のギリシア語では「言」と訳され言葉は、「ロゴス」という単語であり、ロゴスはキリストのことです。
欧米には、宇宙を表す代表的な言葉が三つあります。一つは「スペース」もう一つは「コスモ」です。そしてもう一つに「ロゴス」があります。ロゴスは、ギリシア哲学では、世界の根底になる理性の原理のことです。また言葉にされていない思考の原理のことです。
さらにヘブライ人の思想では、「言」は、神様のことを表わすもう一つの表現でした。もともと言・ロゴスの原意は、はじめ、原始、本源です。まだこの世界も何も無かった時、すでにキリストは、存在しておられました。キリストは、父なる神様と共におられ、創造者でした。
ヨハネによる福音書の冒頭で、神の御子キリストは、宇宙万物を創造され、保持され、治めておられるお方だと始めたのです。キリストは、御聖霊とも共におられ、三位一体の神様である御父と御子と御聖霊は、天と地、宇宙万物の創造において、それぞれの役割を果たされておられました。キリストのことを、「言」と表現されていますのは、第一に、キリストは、神の御子、神であるということです。
フィリピの信徒への手紙2 章6 節~8 節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
第二に、キリストは、創造者であるということです。ヘブライの信徒への手紙1 章2 節「御子によって世界を創造されました。」コロサイの信徒への手紙1 章16 節「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」
第三に、創造は、神様の言葉によって成ったということを意味しています。創世記1 章では、創造において、何度も「神が言われた」と繰り返しています。また詩編33 編6 節
では「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」とあります。そしてヘブライの信徒への手紙11 章3 節「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」とあります。
第四に、キリストは言として、神様の究極的な啓示です。
すなわち父なる神様を、私たちに本質的に示されたお方だとうこです。ヘブライの信徒への手紙1 章3節「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」
そして第五に、イエス様は、神の言として、父なる神様からの全ての人々へのメッセージを伝え、神様の力と意思を明らかにする存在なので、「言」と言われています。
このヨハネによる福音書が記されたのは、AD85 年から90 年位と言われ、エルサレムが、ローマ軍によって崩壊した後、使徒ヨハネが、迫害によってパトモスという島に、流刑になる前と見られます。
イエス様が、御自身を万物の創造される前におられて、万物を創造された神様であり、永遠の神性を断言しておられたことを、何度も記しています。それは、私たちが信じて告白しているお方が、神様であるから、迫害やプレッシャー、悲しみや苦悩の中でも、大丈夫であると確信されられる為でもあったでしょう。
主イエス様は何度も「私は、何々である」ということを繰り返しています。旧約時代、神様の名前は「私はある」というものであると言われました。その同じお方が、イエス様あるということを表されたのです。「わたしが、いのちのパンである。」「わたしは世の光である。」「わたしは羊の門である。」「わたしは良い牧者でる。」「わたしは、よみがえりであり、いのちである。」「わたしは道であり真理であり命である。」「わたしは真のぶどうの木である。」
そしてヨハネによる福音書では、代表的な奇跡が8 つ記されています。一つは、水を上等なワインに変えられた奇跡。二つ目に、湖で嵐を鎮められた奇跡。三つ目に、飢えた群衆に食物を与えられた奇跡。四つ目に、生まれつきの盲人などの病を癒された奇跡。五つ目に、ラザロなど死人を生き返らせた奇跡。六つ目に、湖の上を歩かれた奇跡。七つ目に、何も魚が獲れなかったのに、大漁の奇跡が弟子たちに与えられました。そして八つ目に、十字架で死んだ後に、葬られ、三日後に復活された奇跡です。これらの奇跡は、主イエス様が神であり、その力と愛の性質を伝えるものです。
ですからイエス様が、単に良い人であるとか、道徳的な教師に過ぎないと見なすことは、何と見る目のない、愚かなことでしょうか。むしろイエス様が神の子であり、完全に信頼できるお方であると、心開かれて、神様の教えを理解することができます。また人生における神様の目的を、果たすことが出来るように導かれます。そしてイエス様を信じるなら、罪の赦しを受け、永遠の命が与えられ、神様に従う力を受けることができます。
しかしその為には、ヨハネによる福音書に記された神の言葉を、信じて、心に迎え入れるという応答が必要になります。そして信じて受け入れるなら、イエス様の愛と導きを、御聖霊によって経験することができます。
ですからヨハネによる福音書のもう一つの特徴は、御聖霊なる神様について詳しく記しているということです。
すなわち御聖霊なる神様は、教え、信じる者の内側に住まれ、導き、助言し、慰めを与えるお方です。そしてさらに御聖霊によって、キリストの臨在と力は、キリストを信じる全ての人のうちに、増し加えられます。
結
世界最大の言葉は、キリストです。このキリストに始まりがあったのではなく、キリストは、永遠の昔から、存在され、むしろ万物を創造されたお方です。キリストは、神様のメッセージの源であり、神様の律法や、神様の聖さの基準です。
言なるキリストは、人間となられましたが、同時に万物の創造者です。神様の究極的な啓示であり、神様の聖さを具現化された存在です。そして万物を成り立たせておられるお方です。
当時のユダヤ当局にとって、この人間イエスが「神である」と言うことは、神への冒涜と見なされました。またギリシア人にとっては、「言が人となった」ということは、考えられないことでした。
しかしこの聖書の御言葉を、素直に、信じて受け入れた者には、神の子とされ、罪が赦され、永遠の命が与えられ、無目的な人生という虚無と空しさからも救い出されます。
イエス様が、神の言の本質なら、このお方の事を記した聖書は、まさに神の言葉です。そしてこの神の言葉なる聖書を解き明かす説教も、神様の言葉と言われます。でありますなら、私は、恐れを持って、この講壇での講解説教をすべきだと教えられます。そしてご聖霊なる神様が、聴衆の皆様と共に働いて下さり、神様の言葉の受肉化、生活化がなされますように。
最後に、リュ・ホジュンとう方の「教会に言いたいこと・重んじるべき三つのこと」を受け留めます。「アメリカで神学の学びを終え、卒業式を迎えました。学校の古き伝
統の一つである卒業祝いの朝食会がもたれました。この伝統は、卒業生たちが、ともに食事をしながら、それまでの数年間の思い出や、これから行われていく未来の働きについて、励ましたり、談笑し合ったりする時間でした。
それから、一人の教授が牧会者となる卒業生のために、みことばをもって励ます時間もありました。その日の演説者は、マーテン・ワウドストラ博士でした。引退を目前にしている老教授の食卓談話は、30 年をゆうに過ぎた今でも、私の胸に深く刻まれています。
『愛する皆さん、皆さんは、間もなく【みことばと聖礼典の牧会者】となります。私は牧会者となる、あなたがたに三つのことを重んじる働き人となることをお勧めしたいと思います。みことばを重んじてください。講壇を重んじてください。会衆席を重んじてください。
その時の教えは、その後、私の牧会の働きと教授としての働きにおいて、重要な道標となりました。今、私が立っている所は、いかに尊いことでしょうか。この場所こそ、神様と人々が会う幕屋の中の恵みの御座なのだと思うと、胸がつまります。実に恐れ多く、腰を低くせずにはいられません。」
神様に愛されている皆さん、こんな私が説教者として立てられていることは、実に恐れ多く、腰を低くせざるえません。しかし御聖霊によって、ヨハネによる福音書の御言葉が、皆様の信仰生活に、受肉され、生活化されることを祈ってやみません。主イエス様と、神の御言葉なる聖書の御言葉を、信頼し、信じ、受け入れ、主にあって応答されてゆきませんか。お祈り致します。

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