2021.10.31ヨハネによる福音書1 章2~5 節「万物の創造者キリストは真の命と光」
- CPC K
- 2021年11月1日
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起
前回からヨハネによる福音書の連続講解説教となっています。四つあります福音書のうち、
マタイ、マルコ、ルカによる三つの福音書は、共観福音書と呼ばれ、内容が似ていますが、
ヨハネによる福音書には、先の三つの福音書にはない記事が多く含まれています。
キリストはお一人ですが、その全人格を表すには、一人の人や、一つの福音書では描き切
れません。もっと言いますと、旧新約聖書66 巻の全てを通して、一人のキリストが全人格
的に浮かび上がってきます。
今日の御言葉では、キリストのことを、言、命、光と表現しています。そして私達人間が
抱えています暗闇、すなわち無知、死、罪、不信に対して、真の光を灯す存在として書き始
められています。
承
私が誕生した時、私の両親は、仏教の中の真言宗の信者であり、私たちの家族は、その真言宗ホームでした。家には真言宗の祭壇があり、朝晩に祈祷を捧げる父と母を見て育ちました。そして兄弟の中では、一番真言宗のお寺に連れて行かれました。年に一度のお寺で演芸
会があり、私は一休さんというお坊さんの子ども時代を演じたことがありました。
この真言宗の中に、「入我我入」という教えがあり、私が神様の中にあり、神様が私の内にあるという教えを受けたことがあります。聖書の中にあります、私の中にキリストが、キリストの中に私がという教えに触れた時、何か共通するものがあると思いました。
一説によりますと、真言宗の開祖である空海は、中国に留学した際に、キリスト教の異端でありますネストリウス派の教えに触れて洗礼を受けたと言われています。真言宗は、真の言と漢字で書きますから、キリストが言と言われていることに、高校生の頃、非常に親近感
を覚えました。
そして聖書をさらに読み進むにつれ、キリストにこそ、真理と永遠の命と暗闇に対する救いと解決があると信じることが与えられました。
転
ヨハネによる福音書1 章1 節、そして2節にも、キリストは、「言」と言われています。それは第一に、キリストは、言葉によって万物を創造された創造者故に、「言」と言われています。コリントの信徒への手紙一8 章6 節「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」
そして旧約聖書詩編33 編6 節「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。」キリストは、人類、動物、天体、天使など、目に見えるもの、目に見えないものの全てを造られたお方です。
第二に、キリストは、目に見えない神様を啓示し語るゆえに、「言」と言われています。
人間の言葉が、人の隠れた思いを表すように、イエス様は、目に見えない父なる神様を語り
ます。ヨハネによる福音書1 章18 節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところ
にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
それでは1章2 節をもう一度「この言は、初めに神と共にあった。」万物が造られる前から、言なるキリストは、父なる神様と共にありました。ですからキリストは、永遠であり、
創造されたものではありません。コロサイの信徒への手紙1 章15~17 節には、万物よりも先に存在されていたキリストのことについて、次のように言われています。
「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にある
ものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物
は御子において造られたからです。
つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
「すべてのものが造られる前に生まれた」とありますのは、人間存在として親と子は本質
的に等しく人間です。同じように、コロサイ書の著者は、父なる神様と、子なるキリストは、神様として本質的に等しく同等であり、神様であるということを、生まれたと表現しました。
そしてこのキリストによって万物は造られ、支えられているのですから、この創造者であるキリストから離れては、無に帰してしまいます。またこのキリストの心の中核に迎えてこそ、私たちは真に人間として生きて行けるということです。
3節「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかっ
た。」私たちは、イエス・キリストというと、約2000 年前に、乙女マリアより、御聖霊に
よって誕生したというイメージが強いと思います。しかしもう一つの要素である、天地万物
の創造者キリストという認識も、決して忘れてはならない、キリスト観です。
父なる神様は、キリストを通して、創造と摂理と贖いと救いの業をなされるお方です。ですから私たちの肉体と精神、また社会性と霊性、そして救いに関して、キリスト抜きに考えることは、無を意味し、あらゆる関係において、キリストを入れて、初めて真に成立することを忘れてはなりません。
4 節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」言なるキリストの内に命が
あります。この命は、肉体的な物理的な命と共に、霊的な神様との関係における命、そして
永遠の命も加えた、三つの命を表現しています。
原文のギリシア語で言いますと「命」と訳された言葉は、物理的な命であり、また霊的天
的命をも意味している言葉です。復活であるキリストを通して、生命の源泉である神様から
受けて維持される命のことを示しています。御子の内に、真の命があるので、この御子を信
じる者に、永遠の命を与えることが出来ます。キリストは、過去も現在もそして未来におい
ても、命の源です。
加えて「命」というのは、何も動かず語りもしない偶像に対しても「内に命がある」と表現されています。イザヤ書44 章9~11 節「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべて、その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず、皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。」
命になるキリストは、偶像と異なり、また幻影でもありません。時を創造されたお方は、
時以前におられ、耳を創造されたお方は、私たちの祈りを聞かれ、口を創造されたお方は、
私たちに語りかけられます。目を創造されたお方は、私たちの全てを見ておられます。
古代の著名な神学者の一人、アウグスティヌスは次のように言われています。「人間を造ったお方は、星々の支配者であるのに、母の乳を飲み、ご自分がパンであるのに飢え、泉で
あるのに渇き、光であるのに眠り、道であるのに旅の途中で疲れ、真理であるのに偽りの証
人に告発され、ご自分が教師であるのに鞭で打たれ、土台であるのに十字架につるされ、強
さであるのに弱くなり、癒し主であるのに傷つけられ、ご自分がいのちであるのに死ぬ人間
になられた。」創造者であるキリストは、私たちの救の為に、人となられたのです。
加えて、この命は、人間を照らす光であったと言われています。この光も、単なる物理的
な光だけを意味していません。それは精神的にも、社会的にも、霊的な意味でも光です。
5 節「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」キリストが、光と言われているのは、この世にある無知と不信仰と罪と死と虚無という暗闇を、唯一解決すること
が出来る光として対比され、暗闇に輝いていると表現されています。
しかしキリストが、私達人間の抱える暗黒を、唯一解決する為に、神でありながら人とな
られたのに、暗闇は光を理解しなかったと言われています。「理解しない」と訳された原文
の言葉は、「自分のものにしなかった」とういう意味でもあります。光を受け入れない、神
様の言である主イエス様に対する積極的な拒否と敵意を示したということです。この世は、
光を知ることも、知りたいとも願いません。自分の中にある無知と罪と不従順とが、明らか
にされたくないからです。
しかしこの言、命、光なるキリストを信じて受け入れ、自分の内に入れる者は、永遠の勝
利者なるキリストにあって、暗闇に打ち勝つ命の光を得ます。ヨハネによる福音書16 章33
節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あな
たがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
結
万物は、キリストによって成ったのなら、私たちは、キリストのうちにあり、生き、動き
存在している者たちです。使徒言行録17 章28 節「皆さんのうちのある詩人たちも、『我ら
は神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりで。」
この神様の愛と力は、私たちの直面するどんな問題や悪よりも大きいお方です。あなたも、
人間の無知と不従順から生じる霊的な暗闇に、唯一真の命と光を灯すキリストに預かりませ
んか。そして一人でも多くの人々が、世の暗闇から抜け出ることが出来るように、真の命と
光なる神の言キリストを信頼して、御聖霊によって証しをしてゆきませんか。
最後に、ケン・シゲマツという方の「献身する人生の祝福」受け留めます。「子どもを持つ親御さんたちに、自分の子どもに一番願っていることは何かと尋ねると『幸せに生きてほしい』という答えが返ってきます。しかし皮肉なことですが、個人的な幸福を目標にするなら、決して幸せになることはできません。
イエス様は、神様と隣人への愛と奉仕によって、自分のいのちを失うなら、それを救うと言われました。マルコ福音書8 章31~35 節。他の人に祝福を増し加えることを目標とするなら、自分も幸せになるのです。施しと奉仕の人生は、目で見て学ぶことです。私たちの教
会に通っているパトリックは、4 歳の娘クレアを一人で育てています。彼は、バンクーバー
の都心部で、よく娘と一緒にホームレスの人々に食べ物を配っています。
彼はこれを、神様を礼拝することのように大切だと考えています。彼の目的は、食べ物を配ることだけでなく、彼らと関係を築くことです。『私たちは、食べ物を配るだけでなく、多くの対話をします。そうしているうちに、彼らと関係ができ、彼らを理解し、私たちの心に愛が育ってゆきます。まず土台できれば、イエス様を自然に伝えることができるのです。』
御聖霊に導かれる献身は、人生のすべての部分において、イエス様を経験することにあり、
自分にあるもので、ほかの人に対するイエス様の愛を実践することです。教会と世に対する
イエス様の愛を実践できるように教えることは、子どもの幸せのために、私たちが与えるこ
とのできる最高のプレゼントです。」
神様に愛されている皆さん、言、命、光なるキリストから、愛と光を受けて、ほかの人に分かつ歩みとなってゆくところの世の光に、御聖霊によって、なってゆきませんか。
お祈り致します。

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