2021.10.3ヨハネの黙示録21 章22 節~22 章5 節「天の都・天の故郷」
- CPC K
- 2021年10月3日
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牧師 松矢龍造
起
古今東西、人間の求めてやまないものは、愛と共に、死と永遠の命の解決です。旧約時代の神の民も、新約時代の神の民も、共通していることは、天の故郷、天の都を待ち望んでいたということです。もっと言えば、永遠の命と共に、天の御国で、主なる神様に、永遠に礼拝を捧げることを求めました。
ヘブライの信徒への手紙11 章13~16 節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束さ
れたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」
承
この天の故郷、天の都は、どんな所なのでしょうか。それは五つのものがなく、五つのものがある世界であると、今日の御言葉は告げています。前回は、この天の新しいエルサレムの外観を見ました。今日の御言葉は、その内観が記されています。
先ず地上に比べて、五つのものがありません。第一に、この都には、神殿がありません。22 節
「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。」
地上の神殿は、創造主なる神様との会見の場であり、身代わりとしての動物の血が注がれ、罪の贖いがなされる至聖所がある場所でした。ところが天の都には、全能者である父なる神様と、小羊なるキリストがおられます。そして救いの完成がなされますので、これ以上の贖いが必要ではありません。父なる神様と、御子キリストが、神殿と言われていますから、他の建物としての神殿も至聖所も必要としません。
加えて、神殿は、神の民にとって、神様の臨在の中心であり、礼拝の最も重要な場所でした。けれど天の都では、至るところで、霊と真をもって神様を礼拝することができます。そしてヨハネによる福音書4 章24 節の完全な成就です。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
新しい天のエレサレムでは、全ての神の民が、神様と顔と顔を合わせて見、讃美し、礼拝を捧げます。神様と人々は、永遠に共に住むことになりますから、新しい天のエルサレムでは、建物としての神殿は必要ではありません。
転
続いて天の都においてないものは、第二に、太陽と月です。23 節前半「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。」神の栄光と、世の光なるキリストがおられるのですから、決して消えることのない永遠の光があります。ですから太陽の光も、月の光も必要としません。この光は、善なる純粋で、真実で、聖なる信頼できるものを表しています。
イザヤ書60 章19 節「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」
第三にないものは、都の門が閉じられることがないのです。25 節26 節「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。」天の都には、最初から邪悪なものや、反キリストの勢力の人々が入る危険がまったくないで、都の門が閉じられる必要はないからです。
イザヤ書60 章11 節「あなたの城門は常に開かれていて、昼も夜も閉ざされることはなく、国々の富があなたのもとにもたらされ、その王たちも導き入れられる。」
第四にないものは、夜がありません。ヨハネの黙示録22 章5 節「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」夜や闇は、罪深く邪悪なものの象徴であり、悪の力や死の象徴でもあります。
神の栄光と、世の光なるキリストがおられるのですから、決して消えることのない永遠の光があります。この明かりがあるということは、闇や悪の力が、永遠に打ち倒されていることの証拠です。
そして平和を損なうような敵対する力は、一切存在しなくなります。
そして第五にないものは、22 章3 節「もはや、呪われるものは何一つない。」人類の始めであるアダムとエバが、堕落した際に、この地上の世界に呪いが入ってきました。創世記3 章17 節「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。』」
この呪いが、もはや天では存在しません。律法の呪いから、神の御子キリストが解放して下さり、天では呪いそのものが完全になくなります。ガラテヤの信徒への手紙3 章13 節「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」
それでは、次に天の都において、地上にはないものが少なくても、今日の御言葉においては、五つあります。第一に、水晶のように輝く命の水の川です。22 章1 節「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。」
この新しい天のエルサレムに流れる川は、創造主なる神様がエデンの園に創造した川のようです。創世記2 章10 節「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」
天の都の川の特徴は、それは命を与える川であるということです。エゼキエル書47 章1 節「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。」
エゼキエル書47 章8節「彼はわたしに言った。『これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」
第二には、命の木が存在します。22 章2 節「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」
命の木は、最初エデンの園にありました。しかし堕落した人類は、エデンの園を追われ、エデンの園は、ケルビムと燃える炎の剣に守られて、もはや人類は命の木を食することは許されませんでした。それが、天の都では、命の川の両岸にあり、年に12 回も実を結びます。12 は完全数ですから、永遠の命が存在していることが分かります。
エゼキエル書47 章12 節「川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」
第三に、天の都には、父なる神様と小羊なるキリストの玉座があります。22 章3 節後半「神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。」
旧約時代は、神様の御顔を見ることは、命を失うと言われていました。出エジプト記33 章20 節「また言われた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』」しかし天の都では、神の民は、直接、玉座におられる神様を仰ぐことができ、礼拝を捧げることができます。
詩編17 編15 節「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝し
て、満ち足りることができるでしょう。」マタイによる福音書5 章8 節「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」これらの御言葉が、完全に成就します。
第四に、神様の栄光が、都を照らします。21 章24 節「諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。」神様の栄光が都を照らすとは、都は完全にきよく、真実である神様によって包まれていると言う意味でしょう。そしてイザヤ書60 章1 節の完全な成就となります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」
そして第五に、神の都は、神様ご自身の、完全な臨在に満ちています。都には、罪も悪も、まったく存在しません。ですから神様と共にいることを妨げるものは、何もありません。そして永遠に天のエルサレムは、永遠の安住の地となります。ゼカリヤ書14 章11 節の完全な成就となります。
「そこに人々が住み着く。破滅が再び臨むことはなく、エルサレムは安住の地となる。」
結
天の都では、呪われるものは何一つありません。何と素晴らしい場所しょうか。そして地上では、キリストの福音によって、呪いの解放が始まります。イ・ヨンギュという方の「呪いを祝福に変える福音」という内容を最後に受け留めます。「数年前、その年の『ウクライナの英雄』に選ばれた、あるクリスチャン家庭の映像を見る機会がありました。
その家庭の家長は、若い頃、放蕩生活をし、エイズにかかってしまいました。そのような深い挫折を味わったとき、イエス様の癒しの力についての話を聞きました。『もしかしたら』という思いで、神様にすがり、毎日聖書を読んでいると、『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます』マタイ6章33 節という、御言葉が、心に迫ってきました。
彼は、薬物依存症から脱して悔い改め、新しい生活を始めた姉妹と結婚することになりました。結婚後、妻は双子を身ごもりましたが、一人は死産してしまいました。深い嘆きの川を渡った彼らは、引き取り手のない、エイズ保菌者の孤児を養子にすることにしました。自分たちの間に生まれた二人の子どもの他に、7 人の子どもを養子にして育てている彼らは、このように告白しています。
『最初は、エイズを呪いのしるしだと思っていました。しかし、この病気にかかって、ようやく新しい愛に目が開かれました。イエス様にあって、私たちの呪いが、愛のしるしに変わる祝福を味わっています』。彼は不治の病を通して、神様に出合い、新しい家庭を築きました。神様は、彼の病気を癒してくださいませんでしたが、その代わりに彼に生きる希望と使命を与えて下さいました。福音の中にいると、呪いや病、苦難を通して、イエス様と深く出合うだけでなく、特別な方法で、イエス様を伝える者に変えられるのです。」
神様に愛されている皆さん、天の都では、完全に呪いが何一つなくなります。その前に、地上において、キリストの福音よって、呪いから祝福に変えられる恵みに預かり、これに生かされ生き、御聖霊の良き実を結んで行きませんか。お祈り致します。

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