2021.11.10 民数記22 章1~40 節「主を愛しているなら」
- CPC K
- 2021年11月13日
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牧師 松矢龍造
起
宗教者には、混合主義・シンクレティズムの立場をとる人たちがいます。それは多神教徒、あるいは節操のない宗教家とも言われます。加えて、イエス様の時代には、ファリサイ人、律法学者と呼ばれる人たちの存在は、真理を口先だけで語り、しかもその真理に一切関わらずにいることは確かに可能である人たちがいることを示しています。私たちの中には、そのような混合主義や、偽善的な要素がないでしょうか。
承
今日の御言葉に登場してきますバラムという宗教家は、新約聖書にも引用されている人物です。彼は、神々の預言者と呼ばれたり、占い師、あるいは呪術者とも言われたり、他にも多神教徒や節操のない宗教家と呼ばれます。ペトロの手紙二2 章15 節以降には、このような混合主義的な人々や、バラムのような生き方をしている人々に対して言及しています。
「彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。
この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。
彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。
わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』また、『豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る』と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。」
転
イスラエルの民が、モアブ地方に来た際に、モアブの王バラクは、主を恐れ敬って、イスラエルと友好関係を築くよりも、呪おうとします。そこでモアブの地から600 ㎞も離れていたペトルにいる、呪術者バラムを呼び寄せて、イスラエルの民を呪わせようとしました。
当時の人々は、呪術者の祝福の言葉は、幸いをもたらし、呪いの言葉は、災いをもたらすと、本気で考えていました。
モアブの国の長老たちは、占いの礼物を携えて、呪術者であるバラムのところに行き、モアブの王バラクの言葉を伝えました。
イスラエルを呪うことを告げますと、バラムは占いの謝礼によるのか、次第に心が傾いてゆきます。主はバラムに対して言われました。12 節「神はバラムに言われた。『あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ。』」
バラムは、モアブの使者たちに、一緒に行かないと言います。するとモアブの王バラクは、再びバラムの所に使者を送ります。15 節~17 節「バラクはもう一度、前よりも多くの、位の高い使者を遣わした。彼らはバラムの所に来て言った。『ツィポルの子バラクはこう申します。【どうかわたしのところに来るのを拒まないでください。あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします。どうか来て、わたしのためにイスラエルの民に呪いをかけてください。】』」
大いに優遇すると訳された言葉は、「尊ぶ」「重んじる」という意味の言葉が、二度ヘブライ語で使われています。それは非常に強調した時に使われます。最上級に手厚く持て成すということを表しています。金銭や名誉でつられて利用されてはならないのに、この宗教家も、一緒に行くことに傾いてゆきます。イスカリオテのユダについても、同じことが言えます。
新約聖書テモテへの手紙一6 章9 節10 節「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」
バラムは、最初は、金銭を拒んでいるようで、引かれて行きます。神様の御心が分かっていながら、お金や財産、名声などに目をくらむことに、誰でも気をつける必要があります。民数記22 章18 節~21 節「バラムはバラクの家臣に答えた。『たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。あなたがたも、今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください。』
その夜、神はバラムのもとに来て、こう言われた。『これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない。』バラムは朝起きるとろばに鞍をつけ、モアブの長と共に出かけた。」
主はバラムに対して、前回は行くことを禁じました。しかし今回は、同行を許しました、主が告げられる言葉だけを行わなければならせないと言われました。主には、御栄光を現わされる計画がおありだったのでしょう。
ところが、彼が出発すると、神様の怒りが燃え上がり、主の御使いが送られ、その御使いは、抜き身の剣を手にして、ロバに乗っているバラムの道の前に立ち塞がりました。これを見たろばは、道をそれて畑に踏み込みました。するしバラムは、ろばを打って、道に戻そうとしました。
古代では、ロバは、交通手段、荷物の運搬、穀物を挽くことや、田畑の耕作の為に用いられていました。
この時、ロバの口を主が開かれてバラムに人間の言葉を言う奇跡が起こりました。そして28 節~30 節「『わたしがあなたに何をしたというのですか。三度もわたしを打つとは。』バラムはろばに言った。『お前が勝手なことをするからだ。もし、わたしの手に剣があったら、即座に殺していただろう。』
ろばはバラムに言った。『わたしはあなたのろばですし、あなたは今日までずっとわたしに乗って来られたではありませんか。今まであなたに、このようなことをしたことがあるでしょうか。』彼は言った。『いや、なかった。』」
この時、バラムが、ロバに激しく非難する言葉を言ったのは、自分の中に間違ったことをしているという証拠ではないでしょうか。ここではロバですが、他の人々を激しく非難することは、私たちのどこか間違ったところがあるという証拠である場合があります。そして自分のプライドが、傷つくことがあっても、他の人を傷つけることがあってはならないです。ここでは動物に対してですが、動物に対しても、人間に対しても同じです。
主はこの時、バラムの目を開かれて、主の御使いが、抜き身の剣を手にして、道に立ちふさがっているのを見ました。するとバラムは、身をかがめて、ひれ伏しました。そして主の御使いは、バラムに言いました。
32 節以降です。「『なぜ、このろばを三度も打ったのか。見よ、あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしは妨げる者として出て来たのだ。
このろばはわたしを見たから、三度わたしを避けたのだ。ろばがわたしを避けていなかったなら、きっと今は、ろばを生かしておいても、あなたを殺していたであろう。』バラムは主の御使いに言った。『わたしの間違いでした。あなたがわたしの行く手に立ちふさがっておられるのをわたしは知らなかったのです。もしも、意に反するのでしたら、わたしは引き返します。』主の御使いはバラムに言った。『この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい。』バラムはバラクの長たちと共に行った。」
主の警告を無視してはなりません。主は、直接に語られることや、御使いやロバまで用いて警告されています。世の誘惑に陥ることなく、主にある行動をすることが来ますように。
また主が授けて下さる言葉を心に留め、主の御心を知り、これを語ることが出来ますように。主の細き御声を聴くことや、聴いたことを行い、語ることがキリスト者の本分であることを弁えることが出来ますように。
結
新約聖書ユダの手紙11 節で、バラムの事に関して、もう一つの引用があります。「不幸な者たちです。彼らは『カインの道』をたどり、金もうけのために『バラムの迷い』に陥り、「コラの反逆」によって滅んでしまうのです。
バラムは、主の警告を何度も聞いていながら、誘惑されて迷うことが、これからも続いきました。モアブの王バラクの背後には、サタンがいるでしょう。悪魔は実にひつように何度も私たちを誘惑してきます。それは地上の生涯の全てにおいて続きます。実に日々、瞬間瞬間、注意が必要です。
最後に、ジン・ヒグンという方の「日々天の御国に向かって」の中から「主を愛しているなら」という内容を受け留めます。「ある青年から、こんなことを聞かれました。『先生、お酒を飲むことは罪ですか。イエス様を信じていながらタバコを吸い、ナイトクラブに行くことは罪ですか』。
私が何と答えたかと思いますか。『その質問は妙だね』と言いました。その質問は、学生が教授に『先生、どうすれば落第点を取らずにすみますか』と聞いているのと同じだからです。賢い学生なら、『先生、どうすればA がもらえますか』と聞くことでしょう。
もし夫が『今日、何時までに帰れば、妻が怒らないだろうか』と悩むなら、その人は本当に妻を愛していると言えるでしょうか。『今日帰りにどんな土産を買って帰れば、妻が喜ぶだろうか』くらい考えてもいいのではないでしょうか。それと同じです。
『どうすれば神様が怒らないだろうか』と考えるのではなく、『どうすれば神様がもっと喜ばれるだろう。どうすればもっと多くの実を結ぶことかできるだろうか』と悩んで、その答えに飢え渇くとき、神様が私たちの心をご覧になり、惜しみなく祝福をくださるのではないでしょうか。
主を愛しているのなら、主を恐れ敬うべきです。恐れ敬う心で、主のみこころを求め、主が望まれる聖なる人生を生きるとき、主が私たちに愛と力、知恵、忍耐する力を与えてくださいます。尊い主が、私たちの人生における、すべての問題の前で、圧倒的な勝利を与えてくださるでしょう。」
主に愛されている皆さん、悪魔の誘惑は、日々繰り返されます。その際に、主を恐れ敬い、主の愛に答えて、主を愛しているなら、どのようにするのが、ふさわしいか。主の御心に聴き従うことを、第一に求めて信仰生活を歩んでゆきませんか。御聖霊様の助けを求めながら。お祈り致します。

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