2021.11.17民数記22 章41 節~23 章26 節「何度も繰り返される誘惑」
- CPC K
- 2021年11月18日
- 読了時間: 8分
牧師 松矢龍造
起
悪魔の誘惑と攻撃は、地上の生涯において、止むことはありません。宗教改革者の一人マルチン・ルターも、「悪魔は我々のように怠惰ではない」と言っています。今日の御言葉には、モアブの王バラクが、呪術者バラムに対して、何度も誘惑して来ることが記されています。
イエス様を荒れ野で誘惑して来た悪魔は、時には直接現れ、またある時は、ある人物の背後にいたりします。弟子のペテロは、イエス様が十字架にかかると言うと、それをいさめます。するとイエス様は「下がれ、サタン」と言っています。イスラエルを何度も、バラムによって呪わせようとしていたバラクの背後にも、サタンがいたのではないでしょうか。
そして私たちも、悪魔の誘惑や攻撃には、いつも注意が必要です。悪魔は、光の天使を装うともあります。コリントの信徒への手紙二11 章14 節15 節「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」
承
モアブの王バラクは、呪術師バラムを伴って、バモト・バアルに上りました。そこから旅を続けていたイスラエルの民を見下ろすことが出来ました。バラクは、イスラエルを呪わせようとバラムを誘いましたが、失敗すると場所を変えるなら、応じてくれるのではないかと思ったのでしょう。
さらに呪いの効果を高めるためには、呪う対象の全てを視野に入れなければなりませんでした。それでイスラエルの民を見渡せる山に上ったのでしょう。バモト・バアルとは、「バアルの高台」という意味です。この場所は、バアル礼拝の為の丘でもありました。
転
バモト・バアルに到着すると、呪術者バラムは、バラクに「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と雄羊を用意しなさい」と言いました。七つの祭壇、七頭の雄牛と雄羊と、七が強調されているのは、7はユダヤの文化では、神性を表す数字です。それで神様に喜ばれると思ったのでしょう。
すると主なる神様がバラムに会われ言われました。そして託宣として、バラクに述べました。7節8節「バラクはアラムから、モアブの王は東の山々からわたしを連れて来た。『来て、わたしのためにヤコブを呪え。来て、イスラエルをののしれ。』神が呪いをかけぬものに、どうしてわたしが呪いをかけられよう。主がののしらぬものを、どうしてわたしがののしれよう。」
バラムは、神様が呪わぬものを、呪うことはできないと伝えました。すると次のようなやり取りが続きました。11 節12 節「バラクはバラムに、『あなたは、何ということをしたのですか。わたしは敵に呪いをかけるために、あなたを連れて来たのに、あなたは彼らを祝福してしまった』と言うと、バラムは答えた。『主がわたしの口に授けること、わたしはそれだけを忠実に告げるのです。』」
バラクは、さらにバラムをピスガの頂の見晴らしの良い場と所に移動して、七つの祭壇を築き、捧げ物をしました。すると主はまたバラムに会い、託宣を伝えさせました。18 節~22 節「立て、バラクよ、聞け。ツィポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。
見よ、祝福の命令をわたしは受けた。神の祝福されたものを、わたしが取り消すことはできない。だれもヤコブのうちに災いを認めず、イスラエルのうちに悩みを見る者はない。彼らの神、主が共にいまし、彼らのうちに王をたたえる声が響く。エジプトから彼らを導き出された神は、彼らにとって野牛の角のようだ。」
神様のことを「野牛の角ようだ」と言われています。角は力を象徴しています。古代中東世界では、神に角があったり、牛のような姿で描かれたりすることがあります。
続いてバラムの託宣はこうです。23 節24 節「ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神はその働きを時に応じてヤコブに告げ、イスラエルに示される。
見よ、この民は雌獅子のように身を起こし、雄獅子のように立ち上がる。獲物を食らい、殺したものの血を飲むまで、身を横たえることはない。」
イスラエルには、占いが必要ではありません。なぜなら神様が直接語られるので、占う必要がありません。そして神様が祝福されているなら、誰もそれを妨げることは出来ません。
この託宣から私たちが特に学ぶことがあります。第一に、物をいくら神様に捧げても、心を神様に捧げて、主に聴き従わないなら何になりましょう。サムエル記上15 章22 節「サムエルは言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』
第二に、景色や色や場所を変えても、神様の御心は変わりません。むしろ私たちの心を変えることが必要です。そして時には、場所や仕事だけを変えることによって、逆に私たちの心が、かき乱されることもあります。詩編51 編18 節19 節「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら。わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」
第三に、人が何を願おうが、ただ主の御旨のみが成るということです。バラムは、バラク王の要求に応じて、神様にいけにえを捧げ、イスラエルを呪おうと何度もしましたが、神様に妨げられて、どうしても目的を果たせませんでした。箴言19 章21 節「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」
第四に、主に油注がれた者たちを、呪いの為に触れてはなりません。主自身が守られます。そしてむしろ祝福することです。詩編105 編「『わたしが油を注いだ人々に触れるな、わたしの預言者たちに災いをもたらすな』と。」イザヤ書54 章17 節「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。裁きの座であなたに対立するすべての舌を、あなたは罪に定めることができる。これが主の僕らの嗣業、わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。」
そしてローマの信徒への手紙8 章31~38 節「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』 と書いてあるとおりです。
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
そして第五に、主が語れと言われることだけを語ることが重要です。
結
託宣とは、原文では、「箴言」という意味でもあります。箴言は、生活上の知恵として、神様から与えられたものです。私たちは、主が語られた通り生きることが、最も神の民として、信仰者としてふさわしいです。悪魔は、主が語られておられることを聞かせまい、従わせまいと、生涯、誘惑と攻撃をしかけてくるでしょう。しかし神様の力、神の武具、特に祈りと御言葉、そして御聖霊よって勝利して行くことが出来ますように。
最後に、ティモシー・ケラーと言う方の「私たちの子どもを教えるのはだれですか」という内容を受け留めます。「週に一度、子どもを教会に連れて行くだけで、子どもを思慮深いクリスチャンに育てられると考えるなら、それは大きな間違いです。子どもが聖書に記されている内容を信じると告白しても、心の底に根づいた習性や直感的な判断基準が、聖書と無関係であるなら、結局その子は信仰から離れてしまうでしょう。
日常生活に、御言葉を具体的に適応するには、毎日出会う数々の選択の岐路で下した決断と行動が、イエス様の福音に合致しているかどうか、子どもと一緒に確認する必要があります。神様の命令は、抽象的な信念ではなく、それを子どもの『手首』と『額』に置かなければならないことを教えなければなりません。キリストを信じて経験した通り、日々の考え『額』と行動『手首』が練られていくということを教えなければなりません。
そして何よりも、まず親自身が、信じて告白した通りに、生きなければなりません。子どもたちは、福音に基づいた道徳的な価値と人格が、周りの人々の中に実際に現れる姿を見なければならないのです。イエス様の犠牲による恵みの福音を、頭ではなく心で悟り、その生き方のモデルを目にするなら、私たちの子どもは、自ら進んで正義を行い、正直になるでしょう。また、争っていた人と和解し、純潔を守るでしょう。この世は『あなただけの真理に従って生きよ』と私たちの子どもに教えようとします。私たちが御言葉に従って生きることを教えないなら、きっとだれかが、他のものを私たちの子どもたちを教えるでしょう。」
神様に愛されている皆さん、私たちが先ず、悪魔の誘惑に、祈りと御言葉とご聖霊によって打ち勝ち、生けるモデルとなることが出来ますように。ヨハネの手紙一5 章4節5 節「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」お祈り致します。

コメント