2021.11.21ヨハネによる福音書1 章15~28 節「主キリストへの道をまっすぐにせよ」
- CPC K
- 2021年11月18日
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牧師 松矢龍造
起
来週から今年のアドベント・待降節が始まります。待降節には、最初に来られたメシアなるイエス・キリストを待ち望んだ信仰の姿勢を受け留め、再び来られる再臨のキリストを待ち望むことがふさわしいです。
メシアとは、ヘブライ語で、油注がれた者と言う意味です。そしてギリシア語のキリストも、同じ意味で油注がれた者という意味です。旧約時代、神様から選ばれて王となる者、預言者となるもの、祭司なる者たちに、オリーブの油が頭に注がれて、神様からの任命のしるしとされました。
さらにメシアと呼ばれる救い主は、王、預言者、祭司の三つの職を一人で任命されるために、油注がれた者です。それは神様の力が、その人に臨むしるしと見なされました。まさに選ばれた者、油注がれたキリスト、それが神の御子イエス様です。
承
この油注がれたメシア・キリストを証しするのが、洗礼者ヨハネでした。エルサレムから、ヨルダン側の東にありますベタニヤにいた洗礼者ヨハネに、祭司やレビ人が遣わされてきました。ベタニヤと呼ばれる場所は二つあります。一つは、エルサレムの直ぐ近くにあります後に登場してきます、マリヤとマルタとラザロが住んでいたベタニヤがあります。そしてもう一つが、洗礼者ヨハネがいたベタニヤ、別名をベタバラと呼ばれています。
ここでエルサレムのユダヤ人たちと言われている人々、恐らくユダヤ最高法院・サンヘドリンに属する議員たちです。ローマ帝国は、属国とされていたイスラエルの最高法院に、ユダヤ人の慣習や特に宗教に関する決定権を与えていました。71 人の長老たちから構成されており、一人が議長、もう一人が副議長、残り69 人が議員とされている宗教的・政治的な自治組織がサンヘドリンでした。
議員として構成されていた人たちは、エルサレムの神殿の祭司職に就ついている者や、ファリサイ派や、他の指導的たちに影響力を持つ、ユダヤ教の教師である律法学者たちでした。
転
なぜ洗礼者ヨハネのもとに遣わしたのか。第一の理由は、彼らは信仰の保護者たる者と思い、新しい教えや運動を調査する為でした。旧約時代から、確かめることが命じられていました。申命記18 章20~22 節「『ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。』
あなたは心の中で、『どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか』と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。』」ですから洗礼者ヨハネが、本当の神からの預言者であるかどうかを確かめる為でした。
しかし彼らが純粋な思いで、ヨハネのところに来たかというと、第二の理由は、ヨハネに嫉妬し、彼がどのような人物であるかを確かめようとしたのです。ヨハネには、支持者が多かったからです。
ファリサイ派の人々は、一見信仰深く見えるように、神様の律法を熱心に従っているように見せていました。しかし内には高慢と貪欲に満ちていました。さらに自分たちの伝承が、神様の霊感を受けた言葉と同様に重要であると信じていました。
そして加えて三つ目の理由があります。それは政治的な理由です。真面目な求道心ではなく、政治的な不安からです。後に登場してきますヘロデ・アンティパスは、ヨハネの影響力が、騒乱へと発展することを恐れたために、先手を打ってヨハネ殺害を企てたとあるからです。これは歴史家ヨセフスの「ユダヤ古代史」からのことです。
メシアあるいはキリストという言葉を、当時の権力者たちが使う時には、常に政治的な意味合いが込められがちでした。使徒言行録5 章36 節37 節「以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。」
洗礼者ヨハネのもとに遣わされた祭司やレビ人たちは、質問しました。「あなたは、どなたですか」。洗礼者ヨハネは、「わたしはメシアではない」。またエリヤでもないと言いました。エリヤは、旧約時代の預言者で、炎の車で肉体の死を経ずに、天の御国に凱旋した人です。伝説では、メシアの先駆者で、大預言者あったエリヤが、再来すると信じられていました。洗礼者ヨハネは、預言者エリヤの精神は持っていましたが、エリヤそのものの再来ではありませんでした。
さらに「あの預言者でもない」と言いました。あの預言者とは、モーセに似た預言者が遣わされると言われてもいたからです。申命記18 章15 節「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」
そこで遣わされてきていた祭司やレビ人は22 節「そこで、彼らは言った。『それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。』」
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言いました。23 節「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」暗黒すなわち、罪と死と悪魔と虚無、さらに矛盾に満ちた、この世を、救いに導く力は、ヨハネなど、私達人間にはありません。それが出来るのは、ただお一人、しかもヨハネの後に来られて、彼らのただ中に立っておられる神の御子イエス・キリストだけです。
ヨハネも、わたしたちも、そのことを証しする声に過ぎません。
当時、ユダヤ人の男子は、割礼というしるしを持っていました。そしてユダヤ人でない異邦人がユダヤ教に回心するなら、その印として洗礼を授けました。ところが、洗礼者ヨハネがしていたのは、異邦人だけでなく、ユダヤ人にも、洗礼を授けていたのです。それでユダヤ当局から派遣された人たちは、メシアでもエリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ洗礼を授けているのかと問いました。
するとヨハネは言いました。26 節「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」ヨハネの洗礼は、水によるものでした。すなわち悔い改めた人が、その悔い改めたことを表わすしるしとして、ヨハネは人々に洗礼を授けていたに過ぎません。
続いてヨハネは言いました。27 節「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」履物のひもを解くとは、奴隷や奴隷の仕事の一つです。しかしヨハネは、それ以下であると言ったのです。すなわち主人と奴隷の関係よりも、さらにその距離と差が大きいと言ったのです。
イエス様は、洗礼者ヨハネのことを、預言者たちの中で、最も偉大であると言われました。ルカによる福音書7 章28 節「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。」それならば、私たちは、どれほど自分の高慢さを捨てるべきでありましょうか。
私たちは、キリストがどのようなお方であるかを、真に理解して受け入れるほどに、私たちの高慢と、うぬぼれは次第になくなってゆくのではないでしょうか。その為には、ご聖霊なる神様から、謙遜の霊を受ける必要があります。
いやその前に、神様の御前に、自分の罪を自覚して、霊の医者であるキリストの必要が分かり、信じ受け入れることが重要です。私たちは、自分の栄光を求めるのでなく、もっぱらイエス・キリストの栄光を現わすことに心掛けることが大切です。
そしてこの主なるキリストのもとに真っすぐ来る為には、悔い改めて、メシア・救い主に備えよと叫ぶ、荒れ野の声のような証し人となることを、神様は命じておられます。キリスト者である私達は、神の御子・主なるキリストを証しする声、宣言する声に過ぎません。
栄光の全てを主に帰し、キリストを指し示し、キリストの愛の香りを放ち、源なるキリストを示すことが、ご聖霊によってさらに出来ますように。自分自身ではなく、主を指し示し、このお方を覆うことがありませんよう。履物のひもを解く資格もないほどに、へりくだる謙遜の賜物を祈り求めてゆきませんか。
コリントの信徒への手紙二4 章5~7 節「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」
結
最後に、ジョン・オートバーグという方の「すべてをかける準備」という内容を受け留めます。「最後まで従うという献身の約束は、自発的なものでなければなりません。私はシカゴに住んでいたとき、からだを鍛えようと思い、専門のトレーナーのもとで運動を始めました。彼のような鍛えられた体になりたいと言うと、トレーナーは真面目な顔で私に聞いてきました。『全生活をかける覚悟はありますか。適当にやっていてはだめです。私は腕がちぎれそうになるまでバーベルを持ち上げます。あまりにも身体が痛くて、靴のひもを結ぶこともできません。毎日カロリーをチェックし、夜中に起きてタンパク質を食べなければなりません。何よりも、悲鳴を上げるほどの、からだの痛みに耐える勇気が必要です。それでもすべてをかけますか』。よく考えてみると、私はすべてをかける決意はありませんでした。ただ片足を突っ込んでみたかっただけでした。
エリシャは、エリヤから召されたとき、心を決めるために、自分の耕作用の牛を屠り、鋤の柄を薪として焼きました。それからエリヤについて行き、彼に仕えました。イエス様は、人生のすべてをかける弟子を探しておられます。お金、名誉、地位など、あてにならないものを捨てて従う人を探しておられるのです。
決して失うことのない、栄光に満ちた神の国の民として、整えられた人材を探しておられます。イエス様は、私たちが順境のときでも、逆境の時でも、そばで助けると約束してくださいました。
さあ、イエス様にすべてをかける準備は出来ましたか。できたなら、まずあなたの手にある鋤を焼きましょう。」
神様から愛されている皆さん、主イエス様にいたる道を、悔い改めて真っすぐにしてゆきませんか。そしてイエス様の救いと、ご聖霊様の力を受けて、全ての栄光に主に帰して、荒れ野で叫ぶ声のようにキリストを証しし、神様と人に、お仕えする歩みとなってゆきませんか。お祈り致します。

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