2021.11.3 民数記21 章1~35 節「主を仰ぎ見る」
- CPC K
- 2021年11月13日
- 読了時間: 7分
牧師 松矢龍造
起
事が起こった時に、それをどのような視点で見るかで、愚かにも、信仰深くにもなります。チョ・ドンウンという方が「神様の基準と心で」というタイトルで次ように言われていました。「北京で宣教師として働いていたとき、教会に泥棒が入ったときがありました。
早朝に牧師室の引き出し、事務室の金庫や引き出しをあさって、金目のものやノートパソコンを盗んで行きました。教会員の何人かは、痕跡を探すために防犯カメラ確認し、辺りの警備員たちのところに行って調べました。
ところが牧師先生は、このように言いました。『泥棒が入った出来事をきっかけに、振り返ってみたいことがあります。もしかしたら、私たちの心の霊的な壁が壊れてはいないでしょうか。それぞれ個人的な罪はないか、自分の霊的状態を点検してみてください。』
私たちは、簡単に目に見えるままに判断し、反応します。しかし信仰のある人は、必ず今置かれている環境と状況を、神様の基準とみこころで見つめます。そのような出来事を通して、神様の思いとみこころを読み取ることができなければ、『戸締りをきちんとしなかったからだ』と後悔したり、『あの人のせいだ』と人をさばいたりすることだけで終わってしまいます。
個人でも共同体でも、起こった出来事や状況を、神様の視点見つめなければなりません。神様は、私に、どのような面できよくなることを望んでおられるかを考え、へりくだって、神様の御前に出なければなりません。そして、みことばに従わなければなりません。従順は、神様の視点で見、考えること、みことばが教える通りに従うことです。それが従順の始まりです。」
承
今日の御言葉にありますカナン人との戦いに最初敗れて捕虜を引いていったことが出てきます。また炎の蛇にかまれて多くの死者がでました。またモアブでの通過が許されなかったことが出てきます。これらの状況をどのような視点で見てゆくこが求められた。それが今日の御言葉です。
転
イスラエルの民は、ネゲブに住むカナン人と戦うこととなり、その戦で捕虜を連れて行かれました。戦の前に、主に祈ったとありません。捕虜が引かれていって、ようやく主に祈っています。自分たちの敗北が、主に祈らなかったせいだと気づかせられたのではないでしょうか。
そこで2 節「イスラエルは主に誓いを立てて、『この民をわたしの手に渡してくださるならば、必ず彼らの町を絶滅させます』言った。」主に祈りますと、主はイスラエルの言葉を聞き入れて、カナン人をその手に渡されました。イスラエルは、カナン人とその町々を絶滅させることが出来ました。
敗北して捕虜を引いていった出来事に対して、泣き言を言うだけで、互いを攻め合っていては、カナン人に勝利することは出来なかったでしょう。その出来事の中で、祈って主に頼ることの必要に気づかされたのです。私たちも、罪に屈した際に、主に祈って事をなさなかったことに気づかされるなら幸いです。
次に民は、荒れ野でまた神様とモーセに逆らいました。5節「神とモーセに逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。』」
すると主は炎の蛇をイスラエルの民に向かって送られました。炎の蛇とは、毒蛇のことでしょうか。あるいは噛まれると燃えるような痛みが生じることの表現でしょうか。
蛇は民をかみ、多くの死者出ました。するとイスラエルの民は、このことをどのように見たでしょうか。7 節「民はモーセのもとに来て言った。『わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。』モーセは民のために主に祈った。」
蛇による災難を、主とモーセに対する罪ということに気づき、罪を犯しましたと告白して、主に祈って欲しいとモーセに頼みました。モーセは、民の為に執り成しの祈りを捧げました。すると主は青銅の蛇を作って、これを見上げれば、蛇に噛まれた者が、命を得ると言われました。青銅は、銅とすずの合金です。古代社会では、危険な生き物の力は、その像を作って鎮めることができると信じられていました。これは旧約時代のイスラエルおきたことによって伝説のでしょうか。それとも迷信でしょうか。いずれにせよ、主なる神様が命じられて、その通りにすれば、癒しが起きました。
「見上げる」と訳された言葉は、原文では「仰ぎ見る」という意味でもあります。ですから、青銅の蛇を見上げるとは、これを言われた主を仰ぎ見る時に、癒され、命が与えられることとなりました。
新約聖書では、このことを、キリストを仰ぎ見れば、救いを得られることの予表としています。ヨハネによる福音書3 章14~18 節「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
私たちも、主を仰ぎ望むなら、救われます。イザヤ書45 章22 節「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」
さらに10 節以降では、イスラエルの民が、モアブを通過しようとする際に、アモリ人の王シオンやパシャンの王オグからの攻撃を受けました。主がモーセを通して、主が渡されるという言葉をイスラエルの民に語りかけられました。恐れによって、戦わず逃げることはしませんでした。主の言葉通りにすると主は、勝利を与えてくださいました。
この戦の際に、モアブの国の偶像神ケモシュは、戦の神として崇拝されていました。しかしこの偽りの神は、イスラエルとの戦の時、モアブの国を助けることはありませんでした。主は、この戦において、イスラエルの民を守られただけでなく、偶像の神々の無力さを示して、ご自身の栄光を表されました。
結
私たちは、信仰によって、物事を見、神様によって、勝利を得ることが出来ることを、日毎に習熟してゆくことが必要です。イ・ジェギという方が「神様の御力によって」というタイトルで次ように言われていました。「ある結婚式で、司式者が結婚の誓約のたるに質問しました。
『あなたは死が二人を分かつまで、喜びのときも、悲しみのときも、健やかなときも、病めるときも、富めるときも、貧しいときも、この人を愛し、敬い、真心を尽くすことを誓いますか』。英語圏では、そのように質問されると、簡単に『I do そうします』と答えるのが普通です。しかし、あるカップルが、そのように答えずに、代わりに『神様の助けによってそういますI do with God’s help』と答えました。
信仰によって生きることの本質を理解した、見識の高い返答ではないでしょうか。私たちは、自分の才能や努力だけでは生きていけません。神様の助けが必要です。知恵を絞って奮闘したからといって、問題が解決するわけではないのです。私たちの力と意志だけでは、使命をまっとうすることはできません。神様の助けがなくてはならないのです。ですから、私たちは、自分の思い通りにしたり、人間的な方法に頼ったりしてはいけません。
ただ神様だけを信じなければなりません。どんなに自分が力不足でも、持っている者が少なくても、神様を信じるなら、主は私を通して偉大なことを成し遂げられるでしょう。そのことを信じなければなりません。そうしてこそ、神様の御力を経験することができるのです。信じる者には、不可能なことはありません。神様に信頼するなら、私たちは力を回復することができるのです。」
神様に愛されている皆さん、信じて主を仰ぐことが、どの状況の中でも、最も大切なことです。御言葉と祈り、ご聖霊による視点で、物事を見てゆきませんか。お祈り致します。

コメント