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2021.11.7 ヨハネによる福音書1 章6~13 節 「真の光なるキリストへの道備え」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年11月13日
  • 読了時間: 9分

牧師 松矢龍造

春の到来を指し示す植物は、日本では梅の花です。寒さの中で、あるいは寒暖差のある中で、枝に花を咲かせて、春の到来を指し示します。イスラエルにおいては、春の到来を指し示す植物は、梅の花に似ていますが、アーモンドの木の花です。日本において2月は寒い季節ですが、その時期にイスラエルに研修に行かせて頂いた時に、海抜マイナス200mのガリラヤ湖は、まさに春でした。

そしてガリラヤ湖に向かう道すがらには、春の到来を指し示すアーモンドの木の花が咲いていました。

そして日本の春において代表とされる植物は、桜の木です。桜は満開の花を咲かせて、一期に散ってゆきます。それはまるで、桜の花びらのように、散り際の美しさを表した、十字架で命を捧げられたキリストに似ています。そしてこの十字架のキリストを指し示すのは、梅の花のようなバプテスマのヨハネです。

ヨハネによる福音書では、バプテスマのヨハネは、悔い改めの洗礼を授けていたというより、イエス様の到来を指し示し、証しする面が強調されていますから、洗礼者ヨハネとか、バプテスマのヨハネという呼称ではなく、単にキリストを証した、「ヨハネ」と言われています。このヨハネは、12 使徒のヨハネとは別の人物です。旧約聖書最後の預言者とも言われています。旧約聖書は、メシア・救い主なるキリストを指し示し、待ち望み、預言しています。マラキ書3 章1 節では、キリストが来られる前に、主なる神様は、使者を遣わされるとあります。その使者こそバプテスマのヨハネです。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。

あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」

このヨハネは、奇跡をすることありませんでしたが、彼がキリストに対して伝えた証しは、全て真実でした。このヨハネは、別名キリストを指し示す「指」とも呼ばれます。そしてクリスチャンも、キリストを指し示す証し人として、指なるヨハネに倣いたいものです。

今日の御言葉をもう一度1 章6 節~8 節「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」

梅の花やアーモンドの木の花、そして桜と例えましたが、太陽と月という例えもあります。月は太陽の光を受けて輝きます。同じように義の太陽なるキリストが、真の光であって、その光を受けて、ヨハネも、クリスチャンたちも輝きます。

私たちは、光そのものではありませんが、キリストの光を受けて、キリストを反映し、真の光なるキリストに、人々を向かわせるべきです。私たちは、キリストの光を受けて、キリストを心の中に迎え入れますと、私たちの態度や願望、動機や生き方が変えられてゆきます。それはキリストを指し示す証しの生活となります。

ヨハネは、自分に人々の目を向けさせることはしませんでした。ヨハネは、ただイエス様に、人々の注目を向けさせました。自分が光そのものではないことを、よくよく弁えていたからです。

使徒パウロもそうでした。コリントの信徒への手紙二4 章4~6 節「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。

わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

9 節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」まことの光であるキリストは、まじりけのない、完全な、不変の光です。

またイエス様の光は、一時代、一地方、一民族、一階級の光ではありません。あまねく各時代の全人類を照らす、まことの光です。

加えてイエス様は、世の光として、私たちに神様への道を教えてくださいます。そして神様への道を、どのように歩けばよいのかを示してくださいます。

しかしこの世には、この光に照らされることを拒む人たちがいます。この光は、私達人間の罪を露わにする光でもあるからです。人々に隠されていたとしても、ありのままの私たち人間の姿が露呈されることをも意味しています。それはイエス様以外の人間が、どれほど不完全であるかを示されます。自分自身の本来の罪の姿が明かるみに出ますと、これを拒む人々が出て来てきます。

ヨハネの手紙一1 章5 節6 節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える

知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」

10 節11 節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

世を創造された創造者なるキリストが、来られたのに、この世は、言なるキリストを認めませんでした。すなわちキリストを創造者なる神の御子とも認めず、よそ者のように、邪魔者のようにして扱いました。

人となられた神の御子イエス様は、ユダヤ人として生まれました。父なる神様によって選ばれたメシア・救い主として同胞のユダヤ人のもとにやって来られましたが、ユダヤ人の多くは、イエス様を信じることなく、その言葉を受け入れませんでした。

しかし、どの時代の世の民であっても、キリストを信じ、キリストの言葉を受け入れる者は、神の子となる資格が与えられました。12 節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」イエス様は、創造者なので、霊的に私たちを、神の子として生まれ変わらせることがお出来になられます。

13 節「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」神の子として生まれることは、生来的な機能によりません。すなわち先祖、民族、親の身分、地位によるのではありません。アブラハムの血すじではなく、アブラハムのように信仰によって、義とされ救われ、神の子とされます。

また人間の願望や意志によるのでもありません。人の欲と訳された言葉は、意欲、意向、意図という意味でもありますが、人間の側の何かによって、救われて神の子とされるのでは、いっさいありません。御聖霊によって、新たに生まれます。さらに言えば、修正や向上や成長によってでもなく、新たにご聖霊によって生まれる必要があります。

善行や最善を尽くすことによっても得られません。むしろ不完全な自分であることを気づき悟り、光なるキリストを受け入れ、その名を信じることによって、神の子とされます。

イエス・キリストを、人生の主として喜んで迎える人々は皆、神様から新しい命を受けて、霊的に生まれ変わります。すると第一に、罪を犯し続けません。罪を告白し、悔い改めて、罪からご聖霊によって離れます。ヨハネの手紙一3 章9 節「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」

日本語は、現在進行形を省く言語ですので、原文では「罪を犯し続けることができません」となります。ですから同じヨハネの手紙一1 章7~9 節「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」

第二に、国籍、人種、肌の色に関わりなく、キリストの光を受けて輝きます。イエス様は言われました。マタイによる福音書5 章14~16 節「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」私たちは、誰であっても、キリストの命を受ける時、輝きます。そしてキリストの証人とされます。

第三に、神の家族としての歩みをします。神様から霊的に生まれることは、霊的に神様との関係に生かされ、神の家族に加えられます。ガラテヤの信徒への手紙3 章26~28 節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」

十字架と復活のキリストは、私たちを、あるがままで、そのままで愛して受け入れてくださいます。ならばその愛を受けるなら、ご聖霊によって、心を尽くして神様を愛し、隣人を愛してゆく歩みがふさわしいです。最後に、キム・スヨンという方の「心を尽くして」の中から「適当に生きよという誘惑」という内容を受け留めます。

「サタンがよく使う戦略の中に、非常に効果的なものがあります。暴力、姦淫、暴飲などの破壊的な戦略は容易に見分けられるので、たいていのクリスチャンそのようなものは警戒することができます。

しかしながら気づきにくく、ひそかにやって来る戦略があります。それは「適当に生きよ」とささやく戦略です。サタンは『そんな張り切るなって。あんなに労苦して奉仕しているあの人を見てごらん。最初は頑張っていたけれど、結局は傷ついて倒れてしまったじゃないか。だから、教会のことにあまり深入りしないで、適当に生きたほうがいいよ』と私たちにささやくのです。

またサタンは『おとなしい信徒』になる道を強く勧めます。中途半端に生きるようにと、ささやいてきます。それで多くの人が献身や従順とは、適当な距離を置き、適当に教会の名簿に名前を載せておいて、この世では、クリスチャンだという事実を隠しています。そうすれば、傷つくことも少なく、大きく損をすることもなく、罪悪感からも逃れられるからです。

しかし神様は中途半端な生き方も、適当な献身も決して喜ばれません。神様は忠実な人を用いられます。『忠実』をもう少し積極的に表現すると、『心を尽くす』と言い換えることができます。神様は、私たちが心を尽くして神様を愛することを望んでおられます。任されたことだけに励むという次元を超え、任された以上のことを行いましょう。心を尽くして、主の御心に従う働き人を、神様は喜ばれます。」

神様に愛されている皆さん、真の光なるキリストの光と愛を受け入れ、信じて、神の子とされる恵みと福音を自分のもとされますように。そしてキリストの十字架の愛と、復活の力に預かり、ご聖霊によって、真の光なるキリストを証しする歩みとなりませんか。お祈り致します。

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