2021.12.12ヨハネによる福音書1 章43~51 節「イエス様を通して天が開かれる」
- CPC K
- 2021年12月12日
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起
かつてイスラエルに研修に行かせて頂いた際に、ガリラヤ湖の周辺は、大変印象深い場所の一つでした。もし世界の中で、どこに一番住みたいかと聞かれたなら、私はガリラヤ湖周辺に住みたいと言うほどに、素晴らしい場所でした。それは景観の良い場所であると共に、イエス様のことを黙想するのにふさわしい場所の一つだからです。
イエス様は、最初の弟子であるアンデレとヨハネ、そしてペトロを召し出した翌日、ガリラヤ湖へ行こうとされました。その際に、フィリポに出会いました。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身でした。
ガリラヤと言われた地域は、ヨルダン川の上流とガリラヤ湖の西側の地域を指しています。そしてベトサイダは、ガリラヤ湖の北東岸の漁村でした。しかしこの後に、ベトサイダは、救い主を拒み、その結果、壊滅的に破壊され、現在では、その正確な位置を特定することすらできないと言われています。
承
フィリポは、後にナタナエルに出会います。イエス様の弟子たちは、片方が他方を導くという形で、イエス様の所に引き寄せられていきます。そして現在も、この方法は同じ方法が取られています。私たちは、誰かから導かれて、イエス様の所に引き寄せられました。そして私たちもまた、他の隣人を、イエス様の所に導くという形で、イエス様のところに隣人が引き寄せられて行きます。フィリポは、ナタナエルに出会って言いました。「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」モーセの律法や、預言者たちの書いたものとは、旧約聖書全体を、フィリポもナタナエルも、深く黙想していた人物たちであることが分かります。
私たちも、誰から導かれて、イエス様に引き寄せられて行きますが、このイエス様について、新旧約聖書全体から、イエス様について、深く黙想することを通して、ご聖霊が私たちを、イエス様のところに更に霊的に信仰的に導いてゆかれます。
転
フィリポが、ナタナエルに言いましたモーセの律法の箇所と預言者の書の内容は、特に次の聖句だと考えられます。一つは申命記18 章15 節です。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」
また同じく18 章18 節「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」
そして預言者たちも書いている方という聖句の一つは、イザヤ書53 章3 節です。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」
信仰の持ちたての人の証しは、実に積極的です。するとナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました時に、生半可な知識が邪魔をする時があります。あるいは固定観念が、イエス様のことを信じて受け入れることを妨げることもあります。
フィリポは「来て、見なさい」と答えました。議論するのではなく、「来て、見なさい」と。そうすれば分かります。原文では「来て、見なさい」は、「来て、知覚しなさい」「来て、経験にしなさい」「来て、認めなさい」という意味でもあります。最初は、「ヨセフの子」というだけですから、教義や教理が不十分であっても、主は私たちを招かれます。
イエス様は、ご自身の所に来る、ナタナエルを見て、「彼のことをこう言われました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人に偽りがない。」ナタナエルという名前の意味は「神が与えた者」であり、バルトロマイというイエス様の弟子と同一視されてきました。
ナタナエル、「どうして、わたしを知っておられるのですか」と、イエス様は答えられました。「わたしが、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。「いちじくの木の下」で、ナタナエルは、祈っていたのでしょう。しかもいちじくの木の下とは、人間の視界から完全に遮断されていた場所で、近づかなければ、ナタナエルの姿は、見えていませんでした。ナタナエルは、この後のイエス様の言葉からすると、旧約聖書の、ヤコブの夢のところを、黙想していたのではないでしょうか。創世記28 章10~12 節「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」
イエス様は、多くの場面で、ご聖霊なる神様によって、私たちが読んで黙想している聖書を通して、私たちに語り掛けられるお方です。ですから、日々イエス様の導きと助けを受けたいなら、日々、神の御言葉なる聖書に触れ、黙想していることが重要になります。
49 節「ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。』」ナタナエルは、疑う者でありながら、追求し続ける人物でした。信仰が深まる過程において、疑う所を通ります。ナタナエルは、論より証拠、来て、イエス様を見て、イエス様のことを正しく、深く知ってゆきます。
ナタナエルは、自分の姿が、いちじくの木の下で、見ることが出来なかったのに、その存在を知っておられた事。そして名前を知らないはずなのに、人となりまで知っておられたことを通して、「神の子」であり「王」であることを信じて認めてゆきます。イエス様は、私たちが、イエス様に出会う前から、私たち一人ひとりが何処にいて、どのような人物あるかを既に知って、顧みておられます。
イエス様は言われました。50 節51 節「イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下に、あなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」
「天が開け、神の天使たちが、人となられた神の御子の上に、昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」とは、イエス様が、天と地の唯一の仲介者あり、罪によって隔たっている神様と私たち人間との間を、橋渡しするお方であることを示しています。そしてイエス様を通して天が開け、天におられる父なる神様のもとに、イエス様を信じる者は、行くことが出来るようになります。
ヨハネによる福音書14 章6節7 節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』」
「あなたがたは見ることになる」とは、原文では「継続的に見る」「継続的に識別する」「継続的に洞察能力を持つ」という意味でもあります。イエス様が、天の父なる神様と、私たち人間を結びつけるのを、継続的に識別し、洞察を持って見ることが必要だということです。一度イエス様を知り、信じました。しかし継続的に知り続け、さらに深く信じていくことが必要です。宗教改革者の一人で、私たち長老教会のルーツであるジャン・カルヴァンは、そのことを「神を知る二重の神認識」と表現しました。すなわち、信じる為に知る。そしてさらに深く知る為に信じる。この神様を信じる為に知り、さらに深く認識して、信仰を深めてゆく、いわば「神を知る二重の神認識」は、生涯を通じて、天に召されるまで、聖書の奥義に招かれて行きます。
私は、17 歳のクリスマスの時に、イエス様のことを初めて知り、信じる恵みに預かりました。さらに三つの神学校に行き、そして牧師なっても、さらに日々、新たにイエス様の事、聖書の事を研鑽し続け、ご聖霊によって新たな発見をし、また深みの意味で、信じ続けている過程にあります。
そして、これは生涯、天に召されるまで続きます。
フィリポにも、ナタナエルにも、そしてあらゆる人々に対して「来て、見なさい」「わたしに従ってきなさい」と、今も私たち一人ひとりにイエス様は言われています。
神様は、私たち一人ひとりの本当の姿を知っておられ、あなたにも、ご自分について来て欲しいと望んでおられます。そして私たちが信じて、日々聖書を黙想し続ける中で、ご聖霊様が、イエス様の本質と、目的を深く知るための霊的な洞察力を、与え続けて下さいます。
結
最後に、イ・ドンウォンと言う方の「罪を正当化する者の最期」という内容を受け留めます。「1931年5月、有名な殺人犯が、ニューヨークで逮捕されました。クローリーという名のその人は、特別な理由もなく、殺人を犯しました。たとえば、彼は通りすがりの人が、誤って彼の帽子に触れたという理由で、銃を撃ちました。「人の帽子に触るな」と行って不満をぶつけながら、犯行を犯しました。
それ以外にも、身分証を提示しろと言った警察官を射殺するなど、多くの人を残忍に殺しました。ところが、驚くべきことに、この人は罪を犯しながら、「いつも自分は正しい」
と思っていたそうです。ほかの人の目には、理由がないように見えても、彼には、いつもそうするだけの理由があったというのです。
彼は、終始一貫、自分には、過ちはなく、正当だと主張し続けました。そして電気椅子で処刑されるときになって初めて、『私が今日、このようにして生を閉じることになったのは、いつも自分の罪を正当化してきたからだ』と告白しました。人はみな、自分の過ちを正当化する傾向があります。その終わりのない悪循環を止め、主に立ち返ることができたなら、それは恵みです。悲惨な最期に至る前に、聖なる主の十字架の前に、ひざまずきましょう。ご聖霊が、私たちを悔い改めに導いてくださったならば、私たちは従わなければなりません。」
神様から愛されている皆さん、イエス様を深く知り洞察を深め為には、ご聖霊によって神の御言葉なる聖書を黙想します。そして祈りの中で、自分の罪を正当化せず、罪を認めて告白し、主イエス様の十字架による赦しを求め、復活の主から、自分の罪に打ち勝つ力を求めるが必要です。この信仰の深みに、招かれてゆきませんか。お祈り致します。

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