2021.12.19 クリスマス礼拝 マタイによる福音書2 章1~12 節
- CPC K
- 2021年12月22日
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「救い主を礼拝するためにやってきた異邦人」
牧師 松矢龍造
起
キリスト教は、一民族の救いを伝えているのではなく、全世界の全ての人々の救いを願う福音を証ししています。東方の博士たちは、ユダヤ人から見れば異邦人でした。この異邦人である東方の博士たちが、救い主との出会いを求め、礼拝を捧げることは、救い主イエス様の救いは、ユダヤ人だけでなく、異邦人も、いわば全世界の人々の為の救い主であることを示しています。
東方の博士たちは、新共同訳聖書では、占星術の学者たちと訳されています。原文では、賢者あるいは魔術師や魔法使いという意味も持った言葉です。ペルシャ宗教に帰化して、世襲的に神に仕えていましたが、彼ら特有の古い宗教慣習を持ち、占星術や夢占い、その他の技術を持つ人々であったと言われています。創造主なる神様は、占星術自体は推奨されてはいません。
すなわち天体の運行に、人間の運命を左右する鍵があると考えたりして、星を拝むことは禁じています。申命記4章19節「また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。それらは、あなたの神、主が天の下にいるすべての民に分け与えられたものである。」
承
しかし彼らの熱意と献身、そして新しい真の王を求めて礼拝を捧げる姿勢は、創造なる神様の喜ばれることでしょう。どの宗教、どの立場であれ、回心するなら、以前のあり方を問うものではありません。それではどうして東方の占星術の学者が、星に導かれてユダヤ人の王として生まれた方を、ユダヤの地に求めたのでしょうか。
東方のペルシャは、かつてイスラエルの民が、バビロン捕囚となって滞在していた場所です。バビロン帝国は、ペルシャによって滅ぼされ、その地に留まったイスラエルの民がいました。そして旧約聖書を保持しており、その伝承と共に、ユダヤ人の中から誕生するメシア・救い主が到来することを知っていたでしょう。
また占星術の学者ですから、新たに光る星には敏感であり、創造主なる神様は、宇宙の天体を用い、また全世界の救い主であることを全人類に伝える為に、この占星術の学者たちを用いたのでしょう。一説ではヘロデの統治は、紀元前・BC37年から4年であったので、後にベツレヘム付近の二歳以下の男の子を虐殺させたことから、ヘロデが亡くなる2年前として、BC6年に木星と土星と火星が接近して輝く星に見えたものではないかと言われています。またある説では、彗星ではないかと言っているものもあります。そして星が再び、イエス様がおられるベツレヘムの家まで先導したとあるので、創造主なる神様が、超自然的に誕生させた星ととることが良いのではないかというものもあります。
加えて、旧約聖書そのものが、これに加えられます。ユダヤ人の祭司長、律法学者たちは、ミカ書5章1節を取り上げます。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」
創造主なる神様は、今も全世界の民を、自然啓示や、聖書、そして人伝えで、私たち一人ひとりを、救い主なるイエス様のところに導かれているお方です。ローマの信徒への手紙1章20節21節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」
転
祭司長や律法学者たちは、メシアの誕生地が、ベツレヘムと知っていたのに、どうして自分たち自身が行かなかったのでしょうか。当時、ユダヤ人が求めていたメシアは、アレクサンドロス大王のように、偉大な軍事的、政治的な救助者の出現であって欲しいと思っていました。しかしローマの元老院によって、ユダヤの王に任じられていた、イドマヤ人のヘロデへの警戒感があったのではないでしょうか。
ヘロデは、猜疑心から晩年には、妻子まで処刑してしまう人物です。ですからこのヘロデを恐れて、動く事が出来なかったのではないかと考えられます。しかしそれだけでなく、彼らは、罪と死と悪魔からの解放者、罪の赦しと永遠の命と真の人生の救い主を求めるよりは、軍事的、政治的メシアを求めていたので、いと小さなベツレヘムの村に誕生する子どもには、関心がない、信仰的な目が塞がれていたのではないでしょうか。
ところで、伝統的に、東方の博士は三人と言われています。それは黄金、乳香、没薬という三つの贈り物を、幼子に贈り物として献げることから来ていると言われます。しかし何千キロの旅の往復で、半年以上の長旅です。それにかかる旅費、滞在費、宝の箱を守る武装集団、長旅を支える生活必需品を運ぶポーターを加えたなら、三人どころか、百人という人数を数える人もいます。
現在でも、エベレスの山頂に行き着くのは数人であり、麓から登山に必要な物資を運ぶポーターは、大変な人数で出発している例があります。もしこれが百人単位の武装集団であったなら、ヘロデは警戒したでしょう。またヘロデの猜疑心から、また殺戮が起こるのではないかと警戒するでしょう。3節に「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」とあります。ユダヤ人の王・救い主の誕生について、不安を抱くという反応です。
それにしても、東方の占星術の学者たちは、この百人単位の人々と半年間もかけて費やす費用は、莫大なものではなかったでしょうか。全財産に加えて、職についていたなら休業して、危険を承知しての旅に、どうして出られたのでしょうか。自分の今の宗教、地位、財産、それでは、埋める事か出来ない、空白を抱えていたのではないでしょうか。
古今東西、人々が求めているのは、死の解決、愛の解決、永遠の命の解決と言われています。他のどんなものを持っていても、愛と死と永遠の命の解決がなければ、人生は失敗に終わるのではないでしょうか。東方の占星術の学者たちは、これらを持ち合わせていない故に、莫大な犠牲を払ってまで、王なる救い主を求めて旅をしたのではないでしょうか。
この東方の博士たちが、幼子にお会いすると非常な喜びに導かれ、ひれ伏して礼拝を捧げ、黄金、乳香、没薬を献げます。黄金は、王である方に献げます。乳香は、礼拝に用いるので、神様であるお方に献げます。
そして没薬それは死の準備のためのものです。命を捧げて、民を救うお方であることの示しではないでしょうか。
この後、ヘロデの殺害を逃れ、ヨセフとマリアは、生まれたイエス様と共に、主の天使が夢でヨセフに現れて、エジプトに逃避するようにと示されたことに従います。結果的に、イエス様の王であり、神の御子、そして犠牲を通して民を救うことのしるしでもあった黄金、乳香、没薬は、高価である故に、逃避行の旅費や滞在費として用いられることになりました。神様の備えの素晴らしさです。
東方の博士たちは、その後、「ヘロデのところへ帰るな」と夢で、お告げがあったので、別の道を通って、自分たちの国へ帰って行きました。ヘロデの道に帰るな、それは象徴的なことでもあります。ヘロデの道は、嫉妬、猜疑心、残虐の道です。これに対して、別の道とは、愛と平和、赦しと信頼の道です。
キリストは、私たちの内にある嫉妬、猜疑心、残虐と言う罪の身代わりとなって、十字架にかかる為に来られた救い主です。また復活して、ご聖霊によって、私たちに愛と平和、赦しと信頼を生み出して下さるメシアとして、この世に来て下さいました。あなたも、私も、この救い主の恵みに満ち溢れて、真の命の希望ある人生の道を歩んでいきませんか。
結
最期に、救い主が来られたことを、デンマークの神学者で、セーレン・キルケゴールと言う方が、こんなたとえ話をしていましたので、これを受け留めます。「その国に、非常に凛々しい王子が住んでいました。彼は自分の妻となり、また、国の王女となるにふさわしい女性を探していました。
ある日、彼は父親の用件で、貧しい村を通りかかり、馬車の窓から外を眺めていると、そこに住む美しい農夫の娘が目に止まりました。それからも度々彼女の近くを通りかかったのですが、やがて王子は、彼女に恋をしました。しかし、彼には問題がありました。どうやって彼女の気持ちを、自分に向けることが出来るだろうか。
王子であるからには、彼女に、『私と結婚しなさい』と、命じることもできたかもしれません。けれど、強制されてではなく、自分のことを心から愛して結婚して欲しかったのです。また王子なのだから、素晴らしい衣装を身にまとい、宝石と金貨を携え、金箔で飾った六頭立ての馬車で、彼女の家の前に現れることもできたでしょう。しかし、それでは、彼女が本当に自分のことを愛したのか、あるいはただ、彼の持ち物の素晴らしさに圧倒しただけのことなのか、どうやって分かるというのでしょう。
ついに彼は、違う方法を考えました。彼は、着ていた王服を脱いで、普通の服に着替え、その村に移り住み、自分の身分を知らさずに、彼女と知り合うことにしました。王子は、村の人々と共に住み、彼女の友達になって、互いに互いの興味や、考えていることや、悩みなどを語り合いました。この娘は、王子の人柄が良かったので、そして彼がまず自ら真摯に彼女を愛してくれたので、徐々に王子を愛するようになってゆきました。」
神様に愛されている皆さん、イエス・キリストは、この王子のように、天の御国の栄光の王服を脱いで、私たちと同じ人間の姿になり、私たちを愛して、プロポーズする為に、地上に来られたのです。そしてご自身の命を十字架で捧げて、私たちの一人ひとりの罪の身代わりとして死ぬほどの愛を現わされました。
この愛に応えた人々は、世界中で愛の実を結んでいます。あなたも、このイエス様の愛を受けて、復活の力をご聖霊によって頂いて、新しい愛と真実の生き方をしてゆきませんか。お祈り致します。

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