2021.12.26ヨハネによる福音書 2 章1~12 節「神の御子キリストの最初の奇跡」
- CPC K
- 2021年12月22日
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牧師 松矢龍造
起
ヨハネによる福音書は、四つあります福音書の中で、一番最後に記されました。それ故に、すでに世に現れていました三つの福音書であるマタイ、マルコ、ルカには記されていない記事が載せられています。またすでに世にはっきりとしてきた初代教会を踏まえた内容が記されています。そしてもう一つ、何が、神の御子キリストの行われた最初の奇跡であるのかを、とても意識して記されたと考えられています。
この神の御子イエス様が、最初にしるし、原文は奇跡という意味でもありますが、それは結婚式、婚礼における奇跡でした。奇跡とは、神様が目の前で、生きて働いておられることに気づかせる、シヨッキングな行為や出来事のことです。そしてこの最初の奇跡が、結婚と関係あるものでした。使徒パウロは、キリストと教会との関係を、夫と妻 の関係をたとえて奥義を語りました。イエス様の最初の奇跡は、まちにキリストと教会との関係を踏まえた 奇跡ではないでしょうか。
承
水を高級なぶどう酒に変える奇跡。かつて旧約時代のモーセは、10 の災いの最初の奇跡として、ナイル川の水が、血に変わる奇跡が導かれました。しかしこの水が血に変わる奇跡は、さばきと破壊の要素でした。
しかしイエス様がなさった最初の奇跡は、水をぶどう酒に変える奇跡であり、痛みを鎮め、慰めと喜びを与える祝福の奇跡でした。
2章1節の冒頭で「三日目に」と始まります。初代教会において「三日目に」という言葉の響きは、「主 イエス様は死にて葬られ、三日目に復活された」という内容を連想させるものでした。旧約時代に、イスラエルの民は、よくぶどうの木に例えられました。良い実を結ぶために、エジプトからカナンの地に移し植えられました。しかし良い実が期待されたのに、背信や偶像礼拝、不従順と悪の実を結んでしまいました。その民が、良いぶどうの実を結ぶことが、主イエス様の復活という奇跡を通して、もたらされる。そんな 響きにも聞こえてきます。さらに言えば、婚礼における奇跡は、私たちの生活の中で、身近なところから、主に従う事を通して、主の栄光と奇跡を見ることが出来るという響きにも聞こえてきます。
転
さてガリラのカナで、婚礼があり、イエス様の母マリアもそこにいました。カナという場所は、ナザレ の北北東 6 ㎞とか、ナザレの北方 14 ㎞と言われていますが、ナザレで開かれた婚礼の家が、どの場所であったか見解が分かれるところです。しかしそれよりも、イエス様の母がそこにいたとは、親戚の結婚式であり、イエス様にとっても親戚の婚礼であったということです。 ユダヤの結婚式は、全ての親戚、友人、知人が招かれ、一週間から二週間にも及びました。旧約聖書の士 師記 14 章 17 節にこうあります。「宴会が行われた七日間、彼女は夫に泣きすがった。彼女がしつこくせがんだので、七日目に彼は彼女に明かしてしまった。彼女は同族の者にそのなぞを明かした。」ユダヤ人であった士師サムソンの婚礼にあたって、七日間というしきたりがあったことが分かります。
親戚、友人、知人ということで、イエス様も、その弟子たちも婚礼に招かれました。すると一週間、大勢の人々がいたわけですから、ユダヤでの婚礼で、喜びの象徴ある、ぶどう酒が足りなくなることは予想されます。すると親戚として、台所を任されていた母マリアが、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言われました。どうしてイエス様に言われたのでしょうか。一つ目の理由として、マリアの夫であったヨセフが、すでに天に召されていて、息子であるイエス様に、助けを求めることに慣れていたのではないでしょうか。またマリアは、イエス様が、神の御子であるなら、 栄光の主の姿が見たかったのではないでしょうか。
ところがイエス様が答えられました。「婦人よ、わたしとどんな、かかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」イエス様は、母親であるマリアに対して「婦人よ」と言われました。原文では、大人の女性への尊敬の情を込めた自然な呼びかけとして、女の方という意味の言葉となっています。公生涯に入られたイエス様にとって、母親の指示でなく、天におられる父なる神様の御心に完全に服して行動しておられることを示しています。
そして「わたしの時は、まだ来ていません」と言われたのは、イエス様が、自らの死と復活、すなわち神5 の子としてのまことの栄光があらわれる時は、まだ来ていませんという意味だと思われます。しかし母親であるマリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」 と言いました。
このマリアの言葉が、聖書の中では、一番最後の言葉として記されています。イエス様が言われることは、何でも行いなさいが、マリアの遺言という性格で、後世の人々に遺している言葉として受け留められます。私たちも、イエス様から言われたなら、何度も行う。それは神の民の基本的な信仰姿勢ではないでしょうか。
その家には、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめがありました。律法には、食前に不浄なものに触れた場合、その手で触れるものは、すべて不浄とされるとされていたからです。その水がめが、六つあり、いずれも二ないし三メトレテス入りのものであるとあります。一メトレテスは、約 40 リットルですから、80ℓ から120ℓ という大きな水がめです。6つですから、約 600ℓ の量となります。イエス様は、この水がめに、水をいっぱい入れなさいといわれました。
イエス様は、母の言葉ではなく、 父なる神様の御心に従って、御自身が、神の御子であるしるしとして、奇跡をなされたのです。召し使いた ちは、言われた通りに、水がめの縁まで水を満たしました。イエス様は言われました。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」。召し使いたちは、言われた通りに運んでいきました。おそらく、水をくんだ僕たちは、思ったのではないでしょうか。水を運んでいって、どうなるだろうか。その意味が分からないですが、言われた通りにしました。私たちも、神様から語られたことの意味が、時に分からなくても、信頼して従うことの大切さを教えられます。
すると世話役のところに運ばれた水は、ぶどう酒に変わっていました。9節 10 節「世話役はぶどう酒に 変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世 話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。』」たいていは、最上のぶどう酒は、祝宴の早い時間に出されました。人々が、ぶどう酒の質と味を、よく認識できるからで
す。そしてぶどう酒を飲むにつれて、感覚が鈍り、上等のぶどう酒の味が分からなってきますので、質をおとしたものが振る舞われました。しかしこの時は逆でした。
ヨハネによる福音書は、すでに存在していた初代教会が意識されて記されていました。ですから、最初に出されたぶどう酒は、ユダヤ教の古い律法の解釈であり、上等のぶどう酒は、新しいキリストの福音を指していると受け留めてきました。あるいは、ユダヤ教の律法主義が水であり、イエス様の福音が、ぶどう酒であるとも解釈してきました。 さらに、このぶどう酒は、キリストにある聖餐式の象徴としても受け留められています。この婚礼におけ る、ぶどう酒に変わる奇跡は、過去におけるキリストの十字架と復活を覚えるもの。また現在の霊的キリストの臨在を覚えること。そして未来における天での永遠の命と、神様との御
国での祝宴を思い起こすものと解釈されています。しかし素朴に、イエス様は、私たちの社会生活における喜びを祝福されているということも受け留められ ます。いずれにしても、イエス様は、この最初のしるし、すなわち奇跡を、ガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされました。そしで、弟子たちは、イエス様が神の御子であることを信じたのでした。
この最初の奇跡が、ガリラヤで行われたことも、実に意味あることでした。今は今年のアドベントの期間の中にあります。この季節に良く読まれる聖書の一つに、イザヤ書の8章 23 節から 9 章 5 節があります。 「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦 人のガリラヤは、栄光を受ける。 闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽 しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように、折ってくださった。 地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」 ガリラヤは、イスラエルの民にとって、アッシリア帝国や、バビロン帝国によって、北方から侵入され、 虐殺が最初に起きた場所であり、最も暗黒の地でした。イエス様は、神の御子・救い主として、この地上に 来られ、最初の奇跡をガリラヤで行われた。それは暗黒に住む人々の命の光として来られたことの象徴でし た。ガリラヤで最初の奇跡を起こされる。それは、私たちの最も暗黒の罪と、死と、悪魔と、虚無に 対する、キリストの奇跡が、私たちにも訪れることの象徴です。
結
私たちにとって、最大の奇跡は、神の御子イエス様を信じることが出来るようになることだと言ったのは、宗教改革者の一人、マルチン・ルターでした。そして罪の赦しと永遠の命と共に、私たちにとって、愛し合う生活となるように、私たちが造り変えられることが、奇跡として続くのではないでしょうか。 最期に、ユン・チヨンと言う方の「生かしてくださる主」の中から、「愛をもって祈るとき」という内容 を受け留めます。「神様の愛で満たされて祈るなら、相手の霊的な状態が見えてきます。私たちは、父なる 神様の愛をもって祈るとき、親の目で、その人の内的状態が見えるようになります。赤ちゃんのいる親は、赤ちゃんの表情を見ただけで、何が必要なのかが分かります。また、赤ちゃんの泣き声を聞いただけでも、おむつが汚れているのか、お腹が空いているのか、暑いのか、寒いのかが分かります。同じように、父なる神様の愛をもって祈れば、相手の心をよく察することができるのです。神様の愛が流れると、相手の心の痛みが、どんなものなのかが分かります。 また、その痛みに共感しながら、祈ることができます。そのようにするとき、癒しのみわざが起こるのです。教会の奉仕者は、特別な力がある人ではなく、神様の愛、十字架の愛を覚えて祈る人です。そのような 人には、神様の力が流れて、みわざが起こります。妻の言葉を、なかなか受け入れない夫でも、妻が『あなた、こんなことで困っているでしょう。苦しんでいるんじゃないの。神様があなたを愛しているということ を、知ってもらいたいと願っておられるから、あなたのために祈らせて』と言って、涙ながら祈るなら、キリストの愛が強く注がれて、変えられるでしょう。十字架は、神様の愛を流し、神様の力を現わします。十字架の愛によって、ご聖霊が触れられるとき、その人には必ず回復が起こります。」
神様に愛されている皆さん、復活されたキリストは、今も、生活の身近 なところから、主に従う人々に、奇跡と栄光を見せて下さるお方です。あなたも、イエス様の言葉が、何でもあっても、聴き従って、奇跡に預かってゆきませんか。
お祈り致します。

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