2021.12.5ヨハネによる福音書1 章35~42 節「イエス様に従った最初の弟子たち」
- CPC K
- 2021年12月3日
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牧師 松矢龍造
起
皆さんが、最初に教会に導かれたとき、誰が皆さんを誘ってくださいましたか。あるいは皆さんが、イエス様を信じるにあたって、誰が皆さんにイエス様のことを紹介してくれましたか。
神様は、直接、御自身の方に、皆さんを導くこともお出来になられます。しかし、しばしば、神様は、人を用いて、私たちを、教会や、イエス様のところに導かれます。このヨハネの福音書の著者である使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネから連れて来られて、イエス様に従いました。またもう一人のアンデレは、自分の兄弟であるシモンを、イエス様のところに連れてゆきました。
神様は、不完全な私たち人間を用いて、宣教をなさいます。使徒パウロは、そのことを宣教の愚かさと表現しています。コリントの信徒への手紙一1 章21 節「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
アドベント・待降節の期間に入っています。一年中で、最も宣教しやすい時です。神様は、不完全で弱い私たちですが、私たち、一人ひとりを用いて、隣人をイエス様のところに、連れてくることを望んでおられます。
承
バプテスマのヨハネは、イエス様に対して洗礼を授けた後に、その翌日、ユダヤでは三日後、二人の弟子と一緒にいました。そして歩いておられたイエス様を見つめて「見よ、神の小羊だ」と言いました。「神の小羊」とは、この方こそ、世の人々、すなわち私たちの罪を取り除くために、創造主なる神様が、犠牲の小羊として与えてくださったお方であるということです。もっと言えば、私たちの罪の身代わりとなる為に、小羊のように屠られて、十字架で死なれる犠牲の小羊となる為に、父なる神様が、与えてくださった方だということです。
ヨハネの二人の弟子は、それを聞くと、ヨハネの元を離れて、イエス様に従いました。バプテスマのヨハネは、二人の弟子たちが、自分から去って、イエス様のところに行くことを見て、自分の務めが終わったことを悟りました。まさに神様から使命を全うしたのです。
彼は何の妬みも、悲しみも感じなかったのではないでしょうか。彼は花婿なるキリストの友人であり、花婿の声を聞いて、大いに喜んだのです。ヨハネによる福音書3 章29 節「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は、そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」
ヨハネのメッセージは、簡潔で、単純で、非利己的であり、その全てが、救い主イエス様に関することでした。彼は友から高く評価されることよりも、友が主イエス様に従って行くことに、心を用いたのです。私たちは、どうでしょうか。
転
イエス様は、ヨハネの弟子であった二人が、ご自身に従うのを振り返って見て「何を求めているのか」と言われました。彼らが「ラビ『先生』という意味で、どこに泊まっておられるのですか」と言いました。それはイエス様のことを、もっとよく知りたい、主と一緒にいたいという意味です。主イエス様との交わりを切望していたのです。
イエス様は二人に対して「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。37 節と38 節で「従う」そして39 節にも「ついて行く」と同じ原文の言葉が三回使われています。それは同行する、イエス様に留まるという意味が強調されているということです。中国人の言葉に「君とともに一夜話すことは、10 年書物を読むにまさる」とあります。
そこで二人の弟子は、イエス様について行って、どこに泊まっているかを見ました。そしてイエス様のもとに泊まりました。午後四時頃のことでした。原文では、第10 の時という言葉で、ユダヤの日の時間の数え方であり、日没の二時間前の夕方の4 時頃です。そのままイエス様と一緒に泊まって、イエス様と交わりに対話したことでしょう。
私たちも、霊のキリストと、こうした交わりに入りたいものです。主と霊的に交わり、信仰によって生きることを通して、キリストに対する深く正しい認識を、深く学んで行きます。普段の日々の静思の時、祈祷会やセル、そして礼拝に加えて、時々ゆっくりと、リトリート・退修して、イエス様と
共に交わり、祈りと御言葉を黙想しながら過ごすことは大変有益なことです。私は大抵の時に、その際、黙想ノートや神様への手紙を記します。
40 節「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。」二人の弟子の内、一人の名だけが記されています。アンデレだけの名前ですが、おそらくもう一人の弟子は、このヨハネによる福音書の著者として用いられたヨハネはないかと言われています。謙遜の故に、ヨハネは自分の名を記さなかったのではないでしょうか。
アンデレは、自分の兄弟であるシモンをイエス様のところに連れて来たのに対して、ヨハネも、自分の兄弟であるヤコブをイエス様のところに連れて来ました。そしてこの四人が、イエス様の12 弟子の中核となって行きます。
41 節「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア『油を注がれた者』という意味に出会った」と言った。「油注がれた者」とは、神の民を救いに導くために、神様が選ばれた者』ということです。少なくても、人類はアブラハムの時からいえば、約4 千年もの間、救い主・メシアを持ち望んでいました。約束のキリスト・神が油注がれた方を、アンデレは、兄弟のペトロに会って伝えたのです。
必ずしも、偉大な説教家や巧みな弁士である必要はありません。単純な言葉で、主イエス様のことを、隣
人に告げさえすればよいのです。そうすれば、あとのことは、神様が引き受けてくださいます。私は17 歳の時に、初めて教会における日曜日に礼拝に出席しました。そして三日後に行われた、中高校生のクリスマス集会において、神学生から「あなたはイエス様を信じますか」と問われて、素直に「信じます」と答えました。
42 節「そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』という意味と呼ぶことにする」と言われた。』」
ケファはアラム語、ペトロはギリシア語で、共に「岩」という意味です。新しい名を受けるのは、神様との新しい関係に入ることを意味していました。旧約時代のおいては、ヤコブが、イスラエルという名に変えられた例などがあります。
シモンの現在の姿は、「岩」と呼ばれるような性質ではありませんでした。イエス様は、将来の可能性を見て、彼らの力を引き出されます。ペトロは、この後にイエス様に対する愛情、忠誠、情熱的な姿を見せます。しかしイエス様を三度否むという失敗と絶望という有益な経験により、訓練された後に、復活の主イエス様と出合い、ペンテコステ・ご聖霊の降臨の後に、岩の人となり、また「神の小羊」であることの真の意味を知ってゆきます。
ローマの信徒への手紙4 章25 節「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」ペトロがイエス様に従うにあたって、アンデレの率直な証言が用いられました。個人の証しと伝道によります。それは祈って、信頼関係を持ち、神様の時に伝えます。そして私たちが救われたのは、私たちの為が半分、そしてもう半分は、私たちの隣人である、兄弟姉妹、親や祖父母、親戚、友人を、信仰に導く為です。そしてそれは急務であるということです。コロナ禍、それは、何時感染してもおかしくないなら、キリストを証しすることも急務あることの示しでもあります。そしてそれは普段の生活を通して、日々のライフスタイルを通しての、関係伝道となります。何気ない生活のスタイルにおいて、心を尽くして神様を愛し、隣人を自分と同じように愛している生き方が大切になります。その為には、イエス様と日々、霊的な交わりをなし、ご聖霊に満たされ、力と助けを頂くことです。
結
主は私たちに対しても、シモン・ペトロにように、将来の姿を見て、召し出してくださっています。日々、造り変えられながら、失敗を通して成長させてくださいます。そして、うみ疲れることなく、キリストとその十字架と復活を、世に宣教せねばなりません。誰でもキリストによる救いが必要だからです。さらに主に従う、それは原文では「聞き従う」という意味でもありますが、主に聞き従うことが、誰においても大切なことです。最後にイ・ヨセフという方の「神様の時間を歩く」という中から「従えば、力も与えてくださいます」という内容を受け留めます。
「何らかの働きを始めなければならないとき、責任を負いきれないかもしれないという不安から、始められないことがよくあります。祈ると、神様が自分に担い切れないことを命じられるのではないかと思って、祈るのを止めたことも何度もあります。責任を取ることができる力量と資格が備わってから扉を開けた方がいいと思っていました。しかし責任が取れるかどうかは二の次として、まずは神様が何と語られているかを聞くことが大切です。従えないのではないかと恐れて、最初から聞かないことと、聞いてから従わないことには、大した違いはないように見えますが、大きな違いがあります。たとえば、旅行に行くかどうかを悩んで家を出なかったとしたら、永遠に旅行にはいけません。
しかし、とにかく荷物を持って家を出れば、その時から旅は始まります。その瞬間からこころ持ちが変わるのです。『責任が取れるだろうか』と悩んでいた思いは「どのように解決してゆこうか、何を準備して、どうやって時間を調節しようか」というふうに変わります。責任を取る自信がないないために聞くことを避けていましたが、いざ一歩を踏み出せば、不思議と心の持ちようが変わってくるのです。
主のことばに従えないのではないかと思って、祈りをやめるのではなく、まず主が自分に何と語られるのか、耳を傾けてください。主が語られれば、心持が変わるだけでなく、責任をとることが出来る力量と資格も与えて下さいます。その働きに対する、すべてが変わってゆきます。」
神様に愛されている皆さん、先ず主イエス様のところに来て、霊的にイエス様を見て、祈りと御言葉を聴いて祈り過ごしませんか。そしてその恵みに預かったなら、御言葉に聴き従い、私たちも隣人に対して、イ
エス様のところに来て見て下さいと、証しする日々となってゆきませんか。お祈り致します。

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