2021.12.8民数記23 章27 節~24 章25 節「救いの星の出現」
- CPC K
- 2021年12月12日
- 読了時間: 8分
牧師 松矢龍造
起
待降節・アドベントに入っていますが、今日の御言葉の中に「ひとつの星がヤコブから進み出る」とあります。この預言の第一の成就は、ダビデ王が、モアブやエドムなどを打ち破ることで実現します。サムエル記下8 章1節2 節「その後、ダビデはペリシテ人を討って屈服させ、ペリシテ人の手からメテグ・アンマを奪った。また、モアブを討ち、彼らを地面に伏させて測り縄ではかり、縄二本分の者たちを殺し、一本分の者は生かしておいた。モアブ人はダビデに隷属し、貢を納めるものとなった。」
さらに8章13 節14 節「ダビデはアラムを討って帰る途中、塩の谷でエドム人一万八千を討ち殺し、名声を得た。彼はエドムに守備隊を置くことにした。守備隊はエドム全土に置かれ、全エドムはダビデに隷属した。主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。」
承
この、ひとつの星の第二の成就は、より完全な統治として、メシアなるキリストの来臨を待たなければなりません。あの東方の博士たちが、星に導かれて、イエス様の誕生を告げました。マタイによる福音書2 章1~2節と9~10 節です。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」
現在の私たちも、ひとつの星を待ち望んでいます。それは再臨のキリストです。ヨハネの黙示録22 章16 節では、輝く明けの明星として紹介されています。「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
転
モアブの王バラクは、バラムを連れて、荒れ果てた地を見下ろすペオルの頂きに行きました。呪術者バラムは、またバラクに対して、七つの祭壇、七頭の雄牛と、七匹の雄羊を用意させて、イスラエルを呪う要請に従うようにしました。
このペオルの頂上は、モアブの偶像神ペオルの聖所があった場所であり、シティムの南東約4 ㎞にある小さな丘と思われます。この時、神様の霊が、バラムに臨み、第三の託宣を述べさせました。モアブの王バラクが、何度もイスラエルを呪うようにバラムに告げても、主が何度も介入してそれを阻止しました。
そしてむしろバラムを通して、主はイスラエルを祝福され、他の民族が、イスラエルに敵対しようとしても、その敵対勢力が滅びると預言されました。神様の民に対する霊的な守りは、今も同じです。
バラムは、目の澄んだ者の言葉と、3節で言っています。それは、目が開けた者と続きますが、原文では「心の目、泉、源が開かれた者」という意味でもあります。ですから、真実を見る目を持つ者と訳している他の聖書もあります。4節には、「倒れ伏し」とありますから、一種の恍惚状態になって倒れたと思われます。そして神様から幻を見せられたのではないでしょうか。
後に、サウルなどが、このような状態になります。サムエル記上10 章5節6 節「それから、ペリシテ人の守備隊がいるギブア・エロヒムに向かいなさい。町に入るとき、琴、太鼓、笛、竪琴を持った人々を先頭にして、聖なる高台から下って来る預言者の一団に出会います。彼らは預言する状態になっています。主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」
さらに19 章20~24 節にもあります。「サウルはダビデを捕らえようと使者を遣わした。彼らは預言者の一団が預言しているのに出会った。サムエルが彼らの先頭に立っていた。神の霊はサウルの使者の上にも降り、彼らも預言する状態になった。
サウルはこの報告を受けて、他の使者を遣わしたが、彼らもまた預言する状態になった。三度、サウルは追っ手を送ったが、彼らもまた預言する状態になった。ついに、サウル自身がラマに向かい、セクの大井戸まで来て、『サムエルとダビデはどこにいるのか』と尋ねた。『ラマのナヨトです』という答えを聞き、サウルはラマのナヨトに向かってそこを去ったが、彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けた。
彼は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。このため、『サウルもまた預言者の仲間か』と人々は言った。」
神様が人をして預言者状態に陥らせ、人の思いを止め、神様の御思いを告げられるのです。バラムは、結局、不義の報酬を愛した人物でした。申命記23 章5節6 節「それは、かつてあなたたちがエジプトから出て来たとき、彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである。あなたの神、主はバラムに耳を傾けず、あなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に代えられた。あなたの神、主があなたを愛されたからにほかならない。」
主はイスラエルを愛しておられたので、何度でも、呪術者バラムがイスラエルを呪うことを阻止されたのです。ペトロの手紙二2 章15 節16 節「彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。」
バラクは、呪術者バラムを、イスラエルに呪いにをかけるために招いたのに、三度もイスラエルを祝福しことに対して、激しく怒りました。バラムは、動機は正しくありませんでしたが、神様の介入によって、彼は神様に誠実を持って、イスラエルを祝福しました。
神様は、呪術師さえ用いられました。けれども神様は、魔術や呪術を受け入れたわけではありません。神様は、どんな人でも、神様のご計画を成し遂げる為に用いられる事がお出来になります。
神様は、人の善悪を越えて、究極の王であられるからです。しかしある人は、真理を知り、それを語りながら、自分自身は、それに従おうとしない人たちがいます。
この後、イスラエルは、繁栄の道を進み、神様は偉大な指導者を立てて、イスラエルに敵対する者を滅ぼされます。それは、アブラハムに対する約束であり、神様はその約束を反故にされません。
創世記12 章3 節「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
7節以降のアガグは、アマレク人の有力な王です。アマレク人は、おもに死海の南と東の地域に住んでいた遊牧民で、イスラエルの敵となりました。エドム人は、死海の真南に住み、カイン人は、創世記に登場する、神様に背を向けたカインの子孫であり、山地の南から、シナイ半島にすみ、鍛冶を生業の一つとしていました。これらに対する支配は、エドムやモアブ同様、ダビデ王によって樹立し、より完全な霊的な統治は、メシア・キリストの来臨を待たなければなりませんでした。
結
たとえキリスト者の霊的な敵が立ち上がっても、恐れてはなりません。キリスト者を祝福する者は祝福され、キリスト者を呪う者は、キリストを呪う者となり、その呪いを敵対者自身が受けることになります。私たちも、ユダヤ人の為、霊の長兄なるイスラエルを祝福し、その民族的な再生を祈り続けることが大切です。
そして、私たちは、どんなに誘惑され、攻撃を受けても、主が告げられることだけを告げる者と、ご聖霊によってならせて頂けますように。
最後に、イ・ギュヒョンという方の「世の中で光になりなさい」ということを受け留めます。「聖書で『聖さ』とは、区別を意味します。もしあなたが『私はこの世で全く違和感を感じない。ノンクリスチャンの友達と会っても、楽しく過ごせる』と言うなら、この世と調和し、聖さを失っているかもしれません。クリスチャンにとって、この世との不調和は、当然なことなのです。
聖なる人生を追い求めて生きていると、時には社会不適応者のように見られることがあるかもしれません。しかし、私たちクリスチャンの誇りは『区別』にあるということを忘れてはなりません。堕落した世で、クリスチャンとして生きることは、簡単なことではありません。牧師は、教会の中にいるので、この世での生活が、どれほど大変か、完全には分かりません。しかし、話を聞いていると、信徒たちが信仰を守ることが、いかに大変かということがわかります。ある人は『この世は本当に汚れている』と嘆きます。
しかし汚れた世を避けようとしても、行き場はありません。私たちは、汚れた世に入って行き、光にならなければなりません。『隔離』と『分離』は、意味が違います。クリスチャンは、隔離の人生ではなく、分離の人生を生きなければなりません。聖書で言う聖さは、空間的な概念ではなく、生きる態度の問題です。クリスチャンは、荷をまとめて、祈りに家にこもるのではなく、堕落して汚れた、この世の真ん中に飛び込んで行かなければなりません。
聖さは、世に打ち勝ちます。光によって区別れされた生き方を続けるとき、いつかこの世は、こうべを垂れ、私たちは必ず勝利するのです。」
主に愛されている皆さん、救いの星として、永遠の霊的な光を灯されるキリストの光を受けて、私たちも罪と死と悪魔によって暗くなっている世に対して、地の塩、世の光として、歩んでいきませんか。ご聖霊の助けと力を頂いて、周りを照らす歩みを、なしてゆきませんか。お祈り致します。

コメント