2021.5.23 ペンテコステ礼拝 創世記11 章1~9 節 使徒言行録2 章1~21 節
- CPC K
- 2021年5月21日
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「御聖霊によって混乱から秩序へ」
起
キリスト教徒にとって一年間における三大祭とは、クリスマス、イースター、ペンテコス
テとなります。そして同じくユダヤにも、一年間の間に、主要な祭りが三つあります。過ぎ
越しの祭り・またの名を除酵祭、さらに仮庵の祭り、そしてペンテコステ・七週祭またの名
を五旬節の祭りの三つです。
この三つの祭りの起源は、申命記16 章16 節にこう記されています。「男子はすべて、年
に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に
出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。」
ペンテコステとは、ギリシア語で50 日目を意味し、七週祭・五旬節も、50 日目の祭りの
ことです。元は収穫物のことで、創造主なる神様に感謝を捧げる祭りでした。レビ記23 章
15 節16 節「あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数
え始め、満七週間を経る。七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ
物をささげる。」
申命記16 章9~11 節「あなたは七週を数えねばならない。穀物に鎌を入れる時から始め
て七週を数える。そして、あなたの神、主のために七週祭を行い、あなたの神、主より受け
た祝福に応じて、十分に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい。こうしてあ
なたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる
場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、
寡婦などと共に喜び祝いなさい。」
承
そして新約時代になりますと、主イエス様は、過ぎ越しの祭り・除酵祭の時期に十字架に
付けられ、復活されて40 日間後に天に昇られました。そして10 日後、すなわちイエス様
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が復活されて50 日目に、御聖霊が降りました。このことを感謝するのがペンテコステです。
イエス様が復活されて後に、50 日目に、父なる神様と、御子キリストから、御聖霊が私
たちの地上に遣わされました。すると使徒ペトロたちが、御聖霊に満たされて説教をしまし
た。それは五旬節の祭りの為に、世界中からエルサレムの都に集まっていた人々に対してで
した。
ですからペトロの演説は、国際的な聴衆に向けて語られ、その結果、世界的な霊的な刈り
入れとなりました。旧約時代は、麦の収穫を感謝しましたが、新約時代は、霊的な刈り入れ
を感謝する時となりました。
転
そしてもう一つ、ペンテコステは、旧約聖書のバベルの塔によって混乱した世界に対して、
秩序をもたらすことでも、関連が深いです。創造主なる神様が旧約時代に、創造した人類に
対して命令が与えられました。創世記1 章28 節「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、
増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」
全世界に行って、創造主なる神様の栄光を表す文化を、委ねられた被造物を持って形成し
なさい。また創造主なる神様を恐れ敬う子孫を増やしなさいと命じられました。
しかし創造主なる神様に背を向けた人間は、全世界に行くのではなく、一か所に集まり塔
を建て始めました。その場所は、シンアルの地の平野です。別名はバビロニアの平野です。
現在のイラクの南部の平野です。
この地に止まって塔を建てた理由は、自分たちの偉大さを世界中に見せつけるために、モ
ニュメントを建造したのです。バベルの塔は、人間の偉大な功績であり、世界の驚嘆でした。
さらにバベルとは、バビロニアでは、「神の門」という意味でした。天まで届く塔を建てる
ことで、自分たちが神になったような傲慢な思いに浸るためでした。
イザヤ書14 章13 節14 節「かつて、お前は心に思った。『わたしは天に上り、王座を神
の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のよう
になろう』と。」
ですからバベルの塔は、街の防備でもありましたが、頂上から神々の住まいに通ずる多神
教的発展の素地でした。そして創造主なる神様の為ではなく、人間自身のためのモニュメン
トであり、傲慢のしるしだったのです。
私たちの生活に当てはめますと、高価な洋服、大きな家、贅沢な事、重要な仕事等、それ
自体は、何も悪いものではないかもしれませんが、それは私たち自身の為なら、バベルの塔
と同じとなります。
私たちが、神様の栄光の為でないなら、本来、創造主なる神様がおられる場所や栄光を、
奪ってしまうことになっています。そして不調和と混乱は、神様の栄光ではなく、自分の栄
光の為に行う時に生まれます。
創造主なる神様が、天からこれを見られますと創世記11 章7節「我々は降って行って、
直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」ここで
「我々」と複数形で語られている神様は、ユダヤでは、尊厳の複数形と言われる文化があり、
偉大な存在が、一人であっても、尊厳の複数形で表されます。また三位一体の神様の暗示で
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あるかもしれません。そして神様と神様の御座の前にいる天的な存在を意味しているとも考
えられます。
ノアの箱舟によって洪水から救い出された8 名は、皆同じ言語を使っていたと考えられま
す。ところが、このバベルの塔の建設を止めさせて、全世界に散らされる際に、異なる言語
とされてゆきました。8節9 節「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町
の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉
を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」
異教社会であったバビロニアでは、「バベル」は、「神の門」という意味でしたが、旧約聖
書のヘブライ語の意味は「混乱」です。この地上にあります、争いと混乱、無秩序は、人間
の傲慢の罪の故であり、複数の言語が存在していることが、そのしるしとなっています。
二千年前の五旬節の日に、祈り一つ思いになっているキリスト者の内に、御聖霊が降り留
まると、人々はキリストの証しの言葉を語りだしました。すると世界中の言語が異なってい
る人々が、同じキリストの福音を、自分の国の言語で聞くという奇跡が起こりました。弟子
たちは、別の国の言語を学んだことがないのに、それぞれの国の言葉で語られる奇跡が起き
たのです。
かつてシンガポールにおける牧師の為のセミナーに参加した時です。トゥルニティ教会の
牧師のドミニコという方の講演の中で、ご自身の証しをされる場面がありました。それは中
国語を学んだことがなかったのに、中国に宣教に遣わされた際に、中国国内に滞在している
時だけ、中国人への宣教の為に、中国語を話せる奇跡に預かったというのです。
初代教会の時代、使徒ペトロたちは、集まっていた多国籍の人々に対して、一つのキリス
トの福音が語られますと、混乱と無秩序から、キリストにある救いと平和が与えられて行き
ました。するとそこに集まっていた国際的な人々が、救われて、後にそれぞれの国に帰国し
て、そこでキリストの福音を証ししました。そしてさらにキリストにある救いと平和が、全
世界に広げられて行きました。
もし私たちの内に、キリストがおられることが、周りの人々に分かるような生き方をする
なら、他の人の注意を引き付けることでしょう。もし私たちが輝き、塩気のある生活をする
なら、私たちの周りにいる人々は、その理由を知りたいと思うでしょう。
イエス様は言われました。マタイによる福音書5 章13 節14 節「あなたがたは地の塩で
ある。」「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」また使
徒パウロは、フィリピの信徒への手紙2 章15 節でも言っています。「そうすれば、とがめ
られるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない
神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」
その時に、私たちは、隣人に対して、私たちの内側にある希望を説明することが出来るこ
とでしょう。ペトロの手紙一3 章15 節「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたが
たの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていな
さい。」
その為には、使徒たちと同じように、御聖霊に満たされる必要があります。御聖霊の力と
愛と大胆さを頂く事が出来るように祈り求める必要があります。使徒たちが御聖霊に満たさ
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れて語ると、人々は「いったいこれはどういうことなのか」と互いに言いました。同じこと
が、私たちの周りの人々からも起こるのではないでしょうか。「いったいこれは、どうたこ
とか」。私たちは、周りの他の人々と異なる特徴が言動に現れているでしょうか。
結
その為には、もう一度確認します。御聖霊の力と、御聖霊による活動のもとでだけ、復活
のキリストの証人として生きることができます。最後に、ファ・ジョンブという方の「いつ
でも喜んでいられる理由」ということを受け留めます。「主イエス様が、この地に来られた
という、素晴らしい知らせが生み出す、重要な実があります。
それは喜びです。世の悲しみと、痛みと、病に打ち勝って余りある大きな喜びを、わたし
たちに与えるために、主はこの地に来られました。環境や心の状態に左右される一時的な喜
びではありません。すべてが、うまくいっているとき、苦しみのないときに感じる受動的な
喜びでもありません。
神様が私たちに与えてくださった喜びは、キリストの体と血で贖い救ってくださった十字
架と復活による喜びです。うれしいときだけ喜ぶのではなく、『いつも』喜んでいられるの
は、キリストの愛の故なのです。」
主にある愛する兄弟姉妹、御聖霊によって、どんな時も、喜びと、愛に満たされて行きま
せんか。そして御聖霊によって混乱から秩序が生まれることになりますように。
ガラテヤの信徒への手紙5 章22~26 節「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、
平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリス
ト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったので
す。
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」
お祈り致します。

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