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2021.5.26.27 ペンテコステ祈祷会 「御聖霊と炎」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年5月26日
  • 読了時間: 8分

出エジプト記3 章1~20 節 使徒言行録2 章1~3 節

「御聖霊と炎」

牧師 松矢龍造

聖書では、御聖霊と火や炎は、いつも結びついています。聖書において、火と炎は、しばしば、神様の臨在を示します。

また火は、神様のきよめの御聖霊を象徴しています。そして人生の望ましくない罪の要素を焼き払うことを示しています。さらに他の人の人生に、情熱の火をつけるように、私たちの心を燃え立たせることを示すものでもあります。

今年のペンテコステ祈祷会で、どのような説教をしたらよいでしょうかと御聖霊に祈っておりますと、導かれたテーマが「御聖霊と炎」でした。そして聖書箇所は、モーセの召命における「燃える柴」とご聖霊降臨の際の「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という御言葉です。

ハー・ヨンジヨという元韓国のオンヌリ教会の主任牧師であり、ラブソナタという文化伝道集会を日本の各地で開催された先生の著書の中に次のような内容がありました。「信仰に進歩がありませんか。信仰に奇跡がありませんか。信仰に問題がありませんか。」これらの問いが、御聖霊と炎に関連しての問いとなっています。

この問いは、先ず旧約時代の、ミデアンの荒れ野にいたモーセに向けて問われる課題でした。エジプトの王宮で、王女の養子として育てられ、帝王学・王になる教育が40 年に渡って施されました。しかし肉の思いで、エジプトで奴隷であったヘブライ人を救出しようとして失敗し、ミデアンの荒れ野に逃れたモーセでした。

まさに信仰に進歩がなく、信仰に奇跡なく、信仰に問題がありました。そんなモーセが、羊の群れを、連れて神の山ホレブ・またの名をシナイ山に来た時、燃え尽きることのない、燃える柴の木の光景を見ました。

燃え尽きていたモーセにとって、燃え尽きない柴の木は、物理的に不思議と思うと共に、心と使命において燃え尽きている自分自身に対する何かの示しのようにも思えたかもしれません。

それにしても、まさかモーセは、創造主にして救い主なる神様から、柴を通して語られるとは、思ってもみないものだったでしょう。神様は、時に私たちに語り掛ける際にも、思いがけない物を、お用いになるかもしれません。

かつて主は、アブラハムに対して、煙を吐く炉と燃える松明を通して語られました。創世記15 章17 節「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」

またヤコブは、御使いと格闘することを通して語られました。創世記32 章25~29 節「皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。』『お前の名は何というのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』」さらにエジプトで奴隷であったイスラエルの民が、エジプトから脱出した際に、主なる神様は、雲の柱と、火の柱を通して、導いて下さいました。

そして主は、モーセに対して、燃える柴を通して語り掛けられました。神様は、燃える柴の炎として顕現され、ご臨在を示されました。これは創造主にして救い主なる神様の、前全能性を示す、しるしと奇跡でもありました。

主はモーセに対して、履物を脱げ言われました。その場が聖なる場所であるのは、神様がその場に臨在されるからです。そして履物を脱ぐのは、神様の御前で、敬意を表し、自分が取るに足りない者でことを伝える行為でした。

創造主にして救い主なる神様は、私たちの友となってくださいますが、私たちの絶対的な支配者もあります。神様に軽率に近づくことは、尊敬と誠実さに欠けていることを表すものです。

私たちは、霊と真をもって礼拝を捧げる際に、気楽に近づいて行くでしょうか。それとも聖なる神様に近づくに、ふさわしい態度をもって礼拝を捧げているでしょうか。へりくだりと真実、御聖霊とイエス様の助けを頂いて初めて礼拝を捧げることが出来ることを弁えたいものです。

さらに神様に出会った人はみな、霊的な靴を脱ぐ過程が必要です。すなわち過去と断絶して古き人を脱ぎ捨てることです。また古き人を脱ぎ捨てたなら、新しい人を着ます。船が出発ためには、縄を解かなければならないように、過去の罪の生活を悔い改めて、霊的な靴を脱ぎ捨てます。

預言者エリヤの場合は、激しい大風、地震、そして最後に火があって、その後、神様のメッセージは、かすかな細き声でありました。列王記上19 章10~13 節「エリヤは答えた。『わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。』

主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。

風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」

神様は時に劇的な方法をもって語られるかもしれません。しかしまた、かすかな細い声で語られるかもしれません。根気強く待ち、いつも主に耳を傾けていたいものです。

モーセは、燃える柴の中から語られる、御聖霊なる神様から声を聞きました。そしてモーセは、御聖霊の力に満たされる時、燃え尽きずに、使命を果たし続けることが出来ました。そしてこの後、出エジプトしたからシナイ山で、神様は、天からの火と共に下りて来られました。出エジプト記19 章16~18 節「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山、煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山

全体が激しく震えた。」そして新約時代の初代教会は、五旬節の時、かつてシナイ山では、火は一つの場所でしたが、今度火は、多くの信者たちの上に現れました。それは神様のご臨在が、神様を信じるすべての人たちに与えられることを象徴していました。「炎のような舌」とありますが、舌は話すことや福音の伝達を象徴います。イエス様は、弟子たちに、あ

らゆる国々への証人になるように指示ました。しかし彼らは、先ず御聖霊を待つように命じられました。ルカによる福音書24 章49 節「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」そして使徒言行録1 章8 節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」神様から与えられた使命は、御聖霊の力によって行わなければ、達成することは出来ません。ですから時には、待つことが、神様のご計画の一部であることもあります。私たちは、神様の指示を待ち、神様の声に耳を傾けているでしょうか。私たちには、神様の時とタイミング、そして御力が必要です。

使徒たちは、御聖霊の御力によって、仕え続けることが出来るようになりました。これはモーセも、使徒たちも同じです。私たちにも、御聖霊の炎が誰にでも必要不可欠です。御聖霊の火のバプテスマについて、バプテスマのヨハネの言葉はこうでした。ルカによる福音書3 章16 節「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』」

また御聖霊の注ぎについての預言者ヨエルの言葉はこうでした。ヨエル書3 章1 節2 節「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」

創造主にして救い主なる神様は、失敗して燃え尽きていたモーセを、御聖霊によって用いられました。また無学で普通の人で、イエス様を見捨てた弟子たちを、御聖霊よって用いられました。そして私たちの過去や資質がどうであっても、神様は、私たちをも、御聖霊と火によって用いて下さるお方です。最後に、キム・ヤンジェという方の「熱く行いなさい」から「愛によって残す利益」という内容を受け留めます。

「世界宣教の父ウィリアム・ケアリーは、職人の息子でした。彼が世界的な宣教師になった後、インドの総督の主催する宴会に参加しました。ある役員が大きな声でウィリアムに、『あなたは昔、靴屋ではありませんでしたか』と尋ねました。すると彼は「いいえ、私はそれよりも下の靴の修理屋でした」と答えました。人々は、彼の宣教の働きを従順と献身的なことで評価しますが、当の本人は、自分のように取るに足りない者を救い、用いてくださる主に感謝し、主を心から愛して行ったのでした。主との愛の関係ができているので、5 タラントンでも2 タラントンも、いただいた額に不満を待つことなく感謝利益を残しました。

ウィリアム・ケアリーは、学歴もお金もありませんでした。宣教に出て行くときも、イギリスの教会は、彼に資格がないと言って、派遣しませんでした。ところが、ウィリアムは、すばらしい学歴の人もできない偉大な事を成し遂げました。大学を建て、聖書を16 ヶ国の言語に翻訳し、インドに福音の種を蒔いたのです。主は、今日も、主のために献身し、主のために罪人のところに出て行き、涙を流す人に、タラントンを預けられます。主を愛し、仕える時、多くの利益を残す、称賛される人生となるのです。」

主にある愛する兄妹姉妹、私たちも、御聖霊の炎に満たされて、愛と福音の実を結んでいきませんか。

お祈り致します。

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