2021.6.2 民数記5 章1~31 節 「個人と家庭と共同体の聖さ」
- CPC K
- 2021年6月3日
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希望の祈祷会 民数記5 章1~31 節
「個人と家庭と共同体の聖さ」2021.6.2
牧師 松矢龍造
起
旧約時代は、衛生上の問題は、宗教的な用語やイメージを用いて処理されることが少なくありませんでした。今日の御言葉にあります「汚してはならない」という原文のヘブライ語は、「身を汚してはならない」という意味と共に、「冒涜してはならない」という意味でもあります。いわば、衛生上の意味と、宗教上の意味の両方が込められた言葉になっています。
承
旧約時代に、食べてはならない、汚れている動物は、宗教上の意味と、衛生上の意味の両方が意図されているものがあります。例えば、豚はユダヤでは、汚れた動物として食しません。加えて衛生上でも、生で豚を食べることは、熱処理されてないと細菌が存在している可能性が高いです。
また姦淫の罪とは、結婚外の性交渉のことですが、それが偶像礼拝という意味でも使われています。さらに重い皮膚病であるツアーラアトは、ハンセン氏病とは別ですが、肉体の病気であると共に、宗教的な罪がある状態として表現されることもありました。
転
イスラエルの民が、宿営した際に、天幕と聖所と、その周辺を、宗教的に、きよく保つことが命じられていました。それは、宿営の中に、契約の箱と、それを保管する天幕と聖所がありましたから、そこに聖なる主御自身が臨在されていることを意味しているために、きよく保つことが命じられていました。すなわち宿営のただ中に、神様が臨在されているため、宿営全体が、聖なる空間と見なされています。
以前、気功師と言われる人が、希望が丘教会の敷地の前の道路を通られた際に、教会の庭の方を向いて、ここには良い気が流れていると言われていました。また礼拝堂に入ると、聖なる霊的な空気を感じることがあるのではないでしょうか。あるいは祈りがなされ続けている部屋に入ると、聖なるものを感じる時があります。ですから主の臨在があるところは、聖なる場所であると言われることが分かるような気がします。
次に具体的に、宿営の場所で、汚れているという状態の者は、重い皮膚病にかかっている者、露出のある者、死体に触れて汚れた者で、宗教的に汚れていると言われています。そうならば、それが男女問わず、必ず宿営から出すように命じられています。このことにおいても、創造主にして救い主なる神様は、聖なる方であることを強調されています。イスラエルの民は、その通りに実行しました。キリスト教における、きよめの原則は、汚れや罪の定義と宣言に止まらず、むしろ積極的な、きよめと、赦しの道を示すことにあります。主イエス様の十字架の血は、すべての罪から私たちを、きよめます。ヨハネの手紙一1 章7 節「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」しかもその際に、罪の認罪と告白が伴います。続くヨハネの手紙一1 章8~10 節「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」次に民数記5 章5 節~10 節では、もし汚れた者が、いたならば、宿営の外に出した後、清めの儀式を行うように記されています。汚れた人々は、この清めの儀式をした後に、宿営に戻ることが出来ました。この清めの儀式は、犯した罪を告白し、完全に賠償し、損害を受けた人に支払います。
その際に、賠償を受け継ぐ近親者がいない場合は、賠償は主のものとなり、祭司が受け取ります。レビ記14 章21 節には「もし、彼が貧しくて前記のものに手が届かないならば、自分の贖いの儀式のための奉納物として賠償の献げ物の雄羊一匹」とあります。
この他にも、罪の贖いの儀式をする贖罪ために雄羊を受け取ります。レビ記14 章23~28 節「彼は清めのためにこれらのものを祭司のもとに、すなわち、臨在の幕屋の入り口の主の御前に携える。祭司は賠償の献げ物の雄羊と一ログのオリーブ油を取って、主の御前に奉納物とする。次に、賠償の献げ物の雄羊を屠り、その血を取って清めの儀式を受ける者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗る。祭司は自分の左の手のひらにオリーブ油を注ぎ、そこに右手の指を浸して、その油を七度主の御前に振りまく。次に、手のひらのオリーブ油を、清めの儀式を受ける者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗り、更に賠償の献げ物の血の上にも塗る。」
これらは、宿営と社会生活の秩序を維持するために、罪と汚れを除去するように命じられていました。神様は、聖なるお方なので、汚れを民の中から除き、贖いが必要となります。新約時代は、訓練規定や戒規の執行と呼ばれるものがあります。それは異端すなわち聖書と異なる教えを持ち込んだ人や、法律や道徳を破る人が、教会員に起きた時に、対処するものです。訓練規定の目的は、おもに三つです。主の御名が汚されないため。また共同体に悪しき影響が及ばない為。そして罪を犯した人が、真に悔い改めるためです。
続いて、民数記5 章11~31 節までは、夫婦における姦淫疑惑や嫉妬に関する規定です。もし姦淫の疑惑を持たれたなら、どのように対処すべきかが記されています。この判決法の目的は、一つ目に、結婚の神聖を保つことです。第二、夫婦の間に親密感を作るためです。第三に、主の御前で、はっきりさせることです。第四に、姦淫を取り除くことです。そして第五に、結婚関係における誠実と公正の為に、疑いを取り除くことです。
聖さは、宿営や社会生活だけでなく、家庭において、聖なる事が求められています。これは、姦淫は、偶像礼拝と結びつくことが多いこともあります。また新約時代では、キリストと教会との関係を、夫と妻との関係になぞえられるほど、夫婦の関係は、神様の御前に、重要だからではないでしょうか。
新約聖書エフェソの信徒への手紙5 章25~33 節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』
この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」キリストと教会を、夫と妻の関係でたとえていますから、重要です。
さらに姦淫に関することで、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一6 章16~20 節でこう言っています。「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」キリストが、十字架の代価を払ってくださった自分自身の身体を、不義の為に用いてはならず、かえって、主の栄光の為に、自分の身体を用いるべきです。
結
私たちが、罪と汚れから分離する為には、悔い改めと、キリストの十字架の血が必要となります。最後に、ユ・ギソンと言う方の「悔い改めて、もう一度信仰へ」を受け留めます。「私には、熱心に祈ってくださる養母がいます。アメリカで会ったとは、義母は人生の中で教えられた、信仰の教訓を語ってくれました。
『どんな困難が来た場合でも、心に秘めておいた罪を、すべて吐き出して、悔い改めてから、神様の愛と祝福を信じて、心を尽くして祈りなさい。そうすれば、主が解決してくださらない問題は一つもありません。』
その言葉は、今も忘れることはできません。今でも尊い教訓です。神様には、私たちに対する素晴らしい計画があります。それが成就するのに必要なことは、徹底的に悔い改めることと、神様がすでに祝福してくださったと信じることです。この二つがあれば、解決できない問題はありません。ダビデも、ペトロも、モーセも、使徒パウロも、自分が犯した罪を考えれば、一生隠れて過ごしても、おかしくない人たちでした。では、彼らは、どのようにして偉大な神様の、しもべとなったのでしょうか。徹底して悔い改め、神様の赦しを得て、変わらない神様の愛と祝福を信じ、神様の驚くべき計画を確信することによって、偉大な人生を生きたのです。懲罰と恐れの中でも、泣きながら神様に祈り、泣きながら神様を讃美し、泣きながら神様の恵みを信じる人になってください。すべての人が、自分を責めても、『私は幾万の民も恐れない。彼らがわたしを取り囲もうとも』詩編3:6 と告白すれば、神様のみわざがおこります。『私は死に、イエス様によって生きる』素晴らしいキリストの福音の力を体験することができます。」主にある愛する皆さん、徹底的に悔い改めて、キリストの福音の力を体験し、聖なる歩みとなりますように。お祈り致します。

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