2021.6.9 希望の祈祷会 民数記6 章1~27 節「聖別された生涯と献身」
- CPC K
- 2021年6月13日
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起
旧約時代に、ナジル人という人々がいました。レビ族は、神様によって幕屋や神殿の務めの為に聖別され、献身をする部族でした。これに対して、ナジル人は、部族に関係なく、他者から強いられたり、要求されたりしてではなく、神様の霊・御聖霊によって促され、自発的な誓いをして、特別に嘆願した人を指します。
ナジル人の「ナジル」とは、ヘブライ語の「ナーザル・区別する、身を聖別する」という言葉から来ていると言われます。新約時代は、ある意味で、キリスト者の生涯は、主によって聖別され、神様に献身する人生です。それは、主イエス様の十字架による犠牲と愛と献身に対する感謝の応答です。ですから、キリスト者は、霊的なナジル人と言えるのではないでしょうか。
承
ナジル人で代表的な人物は、預言者サムエルです。ただしサムエルの場合は、例外的に親が、幼い子どもを生涯ナジル人として聖別すると誓った例です。しかし後にサムエルも、自発的にナジル人の誓願をしたと考えられます。
他にも士師のサムソンがいます。士師記13 章7 節「ただその方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいるときから死ぬ日までナジル人として神にささげられているので、わたしにぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないようにとおっしゃいました」とあります。
そしてバプテスマのヨハネも、その一人に挙げられます。ルカによる福音書1 章15~17 節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
転
ナジル人の誓いの目的は、神様に完全に献身したリーダーを育て上げてゆくことでした。そしてナジル人は、神様への奉仕の為に、自分を全く明け渡し、自分自身を神様の為に投げ出すために、邪悪なものから聖別される、神の子の型でもありました。
男性であれ、女性であれ、特別な誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、いくつかのものが禁じられました。第一に、3節です。「ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。」
ぶどうは、カナンにおいては、繁栄、歓喜、快楽、優雅の象徴ですが、さらに堕落の象徴でもありました。私たちも、世的な刺激物にではなく、御聖霊に求めるべきです。エフェソの信徒への手紙5 章18 節19 節「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」
第二に、5節です。「ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない。主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり、髪は長く伸ばしておく。」
これは人が持っている生まれつきの力を、神様への奉仕に捧げることを意味していました。士師サムソンは、デリラという女性に、力の秘訣は髪の毛を切らないことだと明かしてしまい失敗してしまいます。士師記16 章19 節「彼女は膝を枕にサムソンを眠らせ、人を呼んで、彼の髪の毛七房をそらせた。彼女はこうして彼を抑え始め、彼の力は抜けた。」
私たちも霊的なデリラを警戒しなければなりません。私たちの力と冠を奪おうと、待ち構えている霊的なカミソリが、実に私たちの周りにいくつも存在しています。
第三に、6節7 節「主に献身している期間中、死体に近づいてはならない。父母、兄弟姉妹が死んだときも、彼らに触れて汚れを受けてはならない。」死体に触れてはならないのは、神の国は、どのような地上のきずなにも、取って代わるべきであるということを示しています。ナジル人は、大祭司と同じように、死体からの汚れを避ける必要があります。レビ記21 章10 節11 節「同僚の祭司たちの上位に立ち、聖別の油を頭に注がれ、祭司の職に任ぜられ、そのための祭服を着る身となった者は、髪をほどいたり、衣服を裂いたりしてはならない。自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない。」
加えて、死体に触れなくても、同じ天幕にいただけでも、汚れるとされています。民数記19 章14 節「人が天幕の中で死んだときの教えは次のとおりである。そのとき天幕に入った者、あるいはその中にいた者はすべて、七日の間汚れる。」
これら三つ、ふどうの実を飲食せず、髪の毛を切らず、死体に触れない。これらを一つでも犯すなら、ナジル人の誓願期間は無効になり、献身のしるしは汚されます。わたしたちも、ただ一つの罪で、聖徒としての、証しの生活全体が、無力なものとなってしまうことに、なりかねないです。
もしこれらの一つで破られるなら、誓願は無効になりますから、もう一度誓願してナジル人になるためには、贖いの儀式が必要でした。私たちも、御子イエス様の、いけにえによって、罪を告白して、きよめて頂く必要があります。ヨハネの手紙一2 章1 節2 節「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」ナジル人の期間は、最低一ヶ月であり、時として一生かける場合もありました。それぞれ、御聖霊の導きによります。そして誓願の期間が満ちると、誓願成就の儀式を行いました。私の職は牧師ですが、牧師にならなくても、一定の期間、短期宣教師になる人達がいます。それらは、御聖霊が各個人に示された期間です。けれど、牧師や短期宣教師とならなくても、新約時代は、すべのキリスト者は、万人祭司ですから、他の人々を祝福する務めが、委ねられています。民数記の6 章22~27 節には、祭司による祝福が記されています。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、なたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」
ここには、五つの内容があります。一つは、神様は祝福してくださるお方です。二つ目に、神様は微笑みかけて喜んで下さるお方です。三つ目に、神様は恵み溢れる寛容で、憐れみ深い方です。四つ目に、神様は、ご自分の好意を見せて下さるお方です。五つ目に、神様は平安を与えて下さいます。宗教改革者の一人、ジャン・カルヴァンが、神様の祝福についてこのように言われています。「神様の祝福は、実行された神様の良善ある。」祭司が、神様の祝祷をすることは、単に祝福を唱えるだけでなく、主の祝福の流出がなされます。
私も牧師として、礼拝の最後等で、祝祷します。これはコリントの信徒への手紙二13 章13 節
がもとになっています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」これは派遣される神の民に向かって、主の祝福が実際にありますようにということです。そして礼拝堂の出口で握手するのは、祝福を祈っているしるしです。祝福するとは、神様に対しては、ほめたたえることです。また人に対しては、祝福することです。人に対して祝福するとは、他の人に、神様の恵みがあるように求める一つの方法です。そして助けることは、愛を表し、励まし、他の人を大切にする模範を示すことにもなります。もう一つ「平安とは、ヘブライ語のシャロームであり、単に戦争がないことではなく、十分な幸福を意味しています。
結
ナジル人の誓願と献身の後に、祭司の祝福が記されています。これは聖別された生涯と献身は、神様の保護と祝福をもたらすことが結びついていることの表われです。そして神様の恩寵は、恵みの中で示され、神様との交わりは、平安において経験されます。
最後に、ファン・グムマンという方の「神様に聖別して献げるとき」という内容を受け留めます。「1999 年、台湾で起こった地震の後、私は現地の協力教会で宣教師として働きながら、毎週500元を献金することかできるようにと祈りました。宣教師は、献金をしないとか、とても貧しいとかいうような印象を与えたくなかったからです。
当時、台湾で500 元は、私たち家族が、お米を買って2 週間ほど生活できる位のお金でした。わが家の子どもたちのミルクも必要で、2 番目の子は、まだオムツをしていました。車にもガソリンもなく、家にお米もなくなったとき、私に出来ることは、部屋で一日中神様を見上げることだけでした。神様は、どのように必要を満たしてくださるだろうかと期待しながら、待っていました。あらゆる考えを神様に集中しながら、ふと『これが神様のみわざかもしれない』と思いました。私のことを知っている人のいない外国で、だれの助けも期待できませんでした。ただイエス・キリストのうちに閉じ込められているだけでした。しかし、神様は、四か月間、様々な形で、私たちを顧みてくださいました。
青年たちが、私たちの家に来て、子どもたちを世話し、一緒に食事を食べることもありました。以前、一緒に宣教の働きをした同労者たちが訪問した日、手元にあった500 元で食材を買い、豊かな食事を準備しました。しかし、彼らが帰って行った日の夜、聖書を開いて見ると、小さな封筒があり、その中には3000 元が入っていました。
それから10 年経った今まで、神様は私を顧み、必要のすべてを満たしてくださいました。私が持っている小さなものを神様に聖別して献げると、神様は私たちの家族の必要をすべて満たしてくださいました。」
主にある愛する皆さん、御聖霊に導きに従って、聖別された生涯の為に献身する者たちに、神様は必要の全てを満たしてくださいます。この主なる神様に対して、聖別され献身する霊的なナジル人して、隣人を主にあって祝福する歩をしてゆきませんか。お祈り致します。

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