2021.7.25NGW マタイによる福音書 5 章 44 節『敵を愛する』
- CPC K
- 2021年7月28日
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牧師 松矢龍造
起
皆さんは、何度挨拶しても、挨拶してくれない人を、愛することが出来ますか。また自分 に悪いことをなした人の為に、祈ることが出来ますか。さらに愛が感じられない人を愛する ことが出来ますか。 私の生まれながらの心は、出来ませんと答えると思います。皆さんは、どうでしょうか。 ところが、神の御子イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさいと」と 言われました。
承
神の御子イエス様が、地上に人となって来られた時、イスラエルの律法学者たちは、旧約 聖書を誤って解釈して、イスラエルの民に教えていました。たとえば、隣人として愛するの は、イスラエル人だけであり、また、お返しに愛してくれる人だけを、隣人として愛しなさ いと教えていました。 さらに、敵がいたら憎むことが、律法の言うところだとも教えていました。しかしイエス 様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。 転 それでは、どうして、敵を愛し、自分を苦しめる人の為に祈るのでしょうか。第一に、父 なる神様が、悪人にも良い人にも、太陽を昇られてくださるからです。どうですか、皆さん が大好きな人にだけ太陽が昇り、嫌いな人には太陽が昇らないでしょうか。どちらであって も、父なる神様は、太陽を昇られてくださいます。
第二に、天の父なる神様は、正しい人であっても、正しくない人であっても、雨を降らせ て下さるからです。今は梅雨ですが、作物が育ったり、生きていったりするためには、どん な時にも水が必要です。その際に、正しい人にだけ雨が降り、正しくない人には雨が降らな いのでしょうか。そうでなく、天の父なる神様は、両方に雨を降らせて下さいます。 第三に、敵を愛し、迫害する人のために幸いを祈るのは、天の父が完全なように、私たち 人間も、父なる神様のように、人として完全になる為です。それは、父なる神様のように、 どんな人であっても、一人一人の存在を大切に思う、完全な人になりなさいと命じられてい るということです。 第四に、イエス様を信じて、神の子どもとされたなら、天の父の子どもに、ふさわしくな る為に、敵を愛し、自分に悪いことをする人の為に祈りなさいと言われています。 このようにイエス様が言われた時、天の父なる神様は、太陽や雨以外にも、私たちに先ず して下さったことをも、思い出すべきです。私たちが、弱くて、心を尽くして神様を愛し、 隣人を自分と同じように愛せない弱い者なのに。また嘘をついたり、人を妬んだり、罪を犯 2 した罪人であるのに。そして唯一の創造主なる神様を無視して、敵対しているところの敵で あったのに。 父なる神様は、神の独り子であるイエス様を、私たちの罪の身代わりと十字架につける為 に、地上に遣わしてくださいました。わたしたちが、先ず父なる神様を愛したのではなく、 父なる神様が、私たちを愛して、神の御子イエス様を、私たちの罪を贖い赦す為に、お遣わ しなってくださいました。 そしてイエス様は、十字架上で、自分を殺す人たちに対して「父よ、彼らをお赦しくださ い。自分が何をしているのか知らないのです」と赦しと、執り成しの祈りをして下さいまし た。 初代教会で、最初にイエス様を信じない人たちから、迫害され、石打によって殺され殉教 した人は、ステパノさんという人でした。この人も、イエス様の十字架の愛に応えて、自分 を石で殺す人たちの為に、赦しと、執り成しの祈りを捧げました。「主よ、この罪を彼らに 負わせないでください。」 このステパノさんの、姿に衝撃を受けたのは、後に使徒パウロさんという名前に変わった 人、その時は、イエス様を信じる人達を迫害していたサウロという名前でした。このサウロ さんは、復活されたイエス様に出会って、回心して救われた後、使徒パウロさんという名前 になり、今度は自分が迫害される側になり言いました。「善によって悪に打ち勝ちなさい。」 良きサマリヤ人は、敵対しているイスラエルの人が、強盗に襲われて、半殺しになってい る時、手当をして、宿屋で介抱しました。同じイスラエル人である祭司やレビ人が、見捨て ていったのに対して。 自分を愛して、良きことをしてくれる人を愛しても、父なる神様や、神の御子イエス様は、 私たちにどんな、良い褒美を下さるでしょうか。また自分に良くしてくれる人だけに挨拶し ても、どんなに優れたことをしたと、父なる神様と、イエス様から評価されるでしょうか。 そんなことは、自分が嫌っている人や、社会から嫌われている人たちも、それくらいのこと は、していますと、イエス様は言われます。 神様の御前で、私たちは、弱く、罪人あり、敵であったにもかかわらず、父なる神様は、 私たちを愛して、御子なるイエス様を十字架で、私たちの罪の身代わりとなる為に遣わして 下さいました。神の御子イエス様は、私たちの為にも、十字架上で、祈って下さいました。
結
そして御聖霊なる神様は、祈り求める者に対して、愛や祈りの賜物を下さいます。ならば、 相手の態度によって、自分の態度を変えない、完全な愛を持つ者に変えられてゆきます。 先のステパノさんが、石でまさに、殺されようとしている時、ステパノさんには、特別な 賜物が与えられました。それは御聖霊に満たされて、天を見つめると、神様の栄光と父なる 神様の右に立っておられる十字架にかかり、三日後に復活されたイエス様を見ることが出来 ました。 私たちは、敵を愛し、好意的に扱うことで、イエス様が、私たちの人生の主であることを 示します。また神様だけが、私たちを生まれながらの自己中心から救い出すことかでお出来 になります。そして自分を神様にお捧げする人のみ、敵を愛し、迫害する人の為に祈ること 3 ができます。 私たちも、御聖霊の導きにお委ねし、愛が感じられない人々をも愛し、幸いを祈る者とな ってゆきませんか。
最後にヨハネ手紙 4 章 19~21 節をお読みいたします。 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。『神を愛 している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する 人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」お祈り致します。

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