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2021.7.4 ヨハネの黙示録16 章1~11 節「神様の激しい義憤」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年7月2日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


ヨハネの黙示録では、神様の激しい義憤は、神の怒りのぶどう酒に譬えられています。この神の怒りのぶどう酒は、前の時は、杯に入れられましたが、今日の御言葉では、七つの鉢に盛られていました。そして天使たちによって運ばれます。

前の時、ラッパが吹き鳴らされた時は、部分的な裁きでしたが、鉢の場合は、その裁きは、全体に及ぶ完全な裁きとなります。もっと言えば、ラッパが吹き鳴らされた時は、キリストを信じない者たちには、悔い改めの機会がありましたが、鉢の場合は、悔い改めの機会が残されていません。

そしてもう一つ言えば、ラッパが吹き鳴らされた時の裁きは、いくつかの副次的な被害でしたが、鉢の裁きは、全ての攻撃を、直接身に受けるものでした。

一人の罪人が悔い改める時、天での喜びは地上よりも優る喜びであり、天使たちも、その喜びを共に表しました。しかしこの鉢による裁きでは、天使たちは恐ろしい裁きの為に従事すると聞くと、私たちは、とまどってしまうかもしれません。

光と栄光の満ちた天の御国に行く時、初めて私たちは、罪の本当の恐ろしさと、人間の背教の根深さを知ることでしょう。地上にいる私たちの基準は、世的で人間的なものに接しているうちに、弱められ、歪められがちなのではないでしょうか。

七つの鉢と、裁きが盛られた鉢には、完全数である7 が使われていますから、完全な創造主なる神様の義憤が意図されています。レビ記26 章21 節では、七倍の災いと言われています。「それでも、まだわたしに反抗し、わたしの言葉を聞こうとしないならば、あなたたちの罪に七倍の災いを加える。」

神の怒りとは、原文のギリシア語では「激しい怒り」とも訳せます。神様の怒りは、人間の一時の激情にかられて、分別も忘れて、怒り狂うものとはまったく異なります。正しく吟味された義憤に基づく裁きが、神様の怒りです。詩編119 編137 節「主よ、あなたは正しく、あなたの裁きはまっすぐです。」

それでは改めてヨハネの黙示録16 章1 節「また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。『行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。』」大きな声とは、父なる神様の声のことです。七人の天使たち、ひとりずつ合計7つの神の怒りが盛られた鉢が渡されました。2節「そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。」はれ物が出来る裁きは、かつて旧約時代のエジプトにおいても下されました。

出エジプト記9 章10 節11 節「二人はかまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセがそ

れを天に向かってまき散らした。すると、膿の出るはれ物が人と家畜に生じた。魔術師もこのはれ物のためにモーセの前に立つことができなかった。はれ物は魔術師のみならず、エジプト人すべてに生じた。」この悪性のはれ物が出来た人々は、獣の刻印を押さている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに対してでした。獣とは、ローマ帝国及びローマ皇帝を指します。そして獣の刻印とは、初代教会の時では、皇帝礼拝の儀式に参加したことを表すしるしでした。あるいは、皇帝の像が描かれたローマの貨幣を指しているのかもしれません。

3節4 節「第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった。」かつて旧約時代、エジプトのナイル川の水が血に変わった時がありました。

出エジプト記7 章17~21 節「『主はこう言われた。【このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る】と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになる。』主は更にモーセに言われた。『アロンに言いなさい。【杖を取り、エジプトの水という水の上、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし、血に変えなさい】と。エジプトの国中、木や石までも血に浸るであろう。』

モーセとアロンは、主の命じられたとおりにした。彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。」悪性のはれ物にしても、水が血に変わることも、出エジプト記と同じ主による裁きです。そしてもう一つ共通しているのは、パロ王が、これらの裁きを受けても、心をかたくなにし続けていることです。

かつては、海が死人の血のようになって、三分の一が死んだのに対して、今度は、海の中の生き物は、すべて死に絶えたとあます。まさに裁きの全体性と、徹底さが強調されています。5節~7 節「そのとき、わたしは水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。『今おられ、かつておられた聖なる方、あなたは正しい方です。このような裁きをしてくださったからです。この者どもは、聖なる者たちと、預言者たちとの血を流しましたが、あなたは彼らに血をお飲ませになりました。それは当然なことです。わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。『然り、全能者である神、主よ、あなたの裁きは真実で正しい。』」

迫害によって、神の民を殉教に追い込み、血を流して殺した者たちに対しては、正しい主の裁きがなされ、今度は、彼らが死ぬ時となります。主の裁きの重さ、その内容の徹底さが象徴的に表現されています。「祭壇がこう言う」とありますが、この祭壇とは、おそらく殉教した聖徒たちの魂を表しているのでしょう。

8節9 節「第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。」

人々は、創造主なる神様を知らないのではなく、知っていながら、なおも自己中心な生活を続けています。それが人間の悲劇であり、世界の悲劇です。

ローマの信徒への手紙1 章21~25 節「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」10 節「第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。」

闇に覆われてしまうという、創造主なる神様の裁きは、エジプトにおいても起こりました。出エジプト記10 章21~23 節「主はモーセに言われた。『手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じるほどにしなさい。』モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。」

しかしこのような裁きが下されても、人々は、苦しみもだえて、自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに、悔い改めることなく、神様を冒涜し、その行いを悔い改めようとしませんでした。機会があるうちに、今、創造主なる神様のもとに立ち帰ることが大切です。神様の警告を繰り返し無視していると、そのうちに神様の声が、まったく聞こえなくなってしまいます。

最後に、エディ・ビョンという方の「正義よ、目をさませ」から「正義とは何か」という内容を受け留めます。「正義を意味するヘブライ語は、『ミシュパート』で、聖書には多様な形で200 回以上出てきます。この単語には、基本的に『人々をよくもてなす』という意味があります。保護でも刑罰でも、『人々に正当なものを与える』という意味もあります。正義とは何でしょうか。

インターナショナル・ジャスティス・ミッションの創設者であるゲイリー・ホーゲン氏は、正義について『人々の間の力と権威が、神様の優れた道徳性の基準と一致して用いられるとき、地上に正義が実現される』と言いました。これをさらにシンプルにして、ティモティ・ケラー牧師は、『正義とは、弱者を顧みることだ』と言っています。

正義が、力の正しい行使だとすれば、不義は力の誤用ということになります。ゲイリー・ホーゲン氏は、不義について『神様がほかの人に与えられた、いのち、人生、尊厳性、自由、愛、労働の実などを奪うために力を誤用するとき、不義は起こる』と言いました。

不義は、強者が弱者を虐待し、利用し、搾取することです。人々が弱い者、貧しい者、病弱な者を、保護しないとき、不義は社会に伝染病のように広がるのです。

正義についての研究は、正義の神様を見上げることから始めるべきです。また、正義に対する追及は、神様に対する追求へと進むべきです。正義は、神様の心の中で激しく揺れる情熱です。全能の神様は、正義の神様なのです。」

主にある愛する皆さん、永遠の主なる神様は、聖なる方であり、正しいお方です。また全能者であり、この主の裁きは、真実で正しいです。この主のもとに、機会を失うことなく、悔い改めて、立ち帰りませんか。またこの主の正義を、御聖霊様の助けを祈り求めながら、行ってゆきませんか。

お祈り致します。

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