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2021.7.7 希望の祈祷会 民数記9 章1~23 節「福音から御心に従う信仰生活」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年7月8日
  • 読了時間: 7分

牧師 松矢龍造


神の民の生活において大切なことは、絶えずキリストの福音を生活の拠り所とし、主の御心に絶えず聴き従うことです。かつてニューヨークで研修する機会が与えられ、リディーマー長老教会の牧師あるティム・ケラー牧師が大切にしている教えを受けました。それは救われるだけでなく、救われた後も、キリスト者は、徹頭徹尾、福音で動き、奉仕し、語ることが重要と教えられました。

イエス様の福音によって救われたのに、生活は律法主義であることの危険を言われたのです。使徒パウロの言葉で言うなら、霊で始めたこしを、肉で終わらせようとしているということです。地上での新生と聖化、そして天上での完成である栄化も、皆キリストの福音によります。

福音で動かないなら、燃え尽き、疲れ、人を裁き、自分の栄光を求め、神様の栄光でなくなってしまいます。キリストの恵みの福音で動く。それならば、誇るのは主のみであり、人を裁くことなく、御聖霊によって動くので燃え尽きることがありません。

そしてキリストの福音と神様の愛を動機とすることに加えて、もう一つ信仰生活で大切なことは、絶えず、日々、主の御心に従って生かされ生きることです。この福音で動き、主の御心に聴き従うことは、旧約時代のイスラエルの民にとっては、過ぎ越しの祭りを守ることと、昼は雲の柱、夜は火の柱によって動き、また宿営することでした。

今日の御言葉では、イスラエル民が、シナイ山の麓から、荒れ野を経て、約束の地カナンに向かう上で、大切な過ぎ事の規定と、雲が幕屋を覆うことが示されています。すなわち、主は、民が過ぎ越しの祭りを祝うことで、主の恵みと救いを忘れることがないようにされました。また雲によって、主の臨在と、民の行動の時を知らせました。

主の恵みに動かされ、主の命令と、主の時をしっかりと弁えて、信仰生活を営むことは、どの時代の神の民であっても、信仰の歩みの本分です。

エジプトにおいて奴隷とされていたイスラエルの民が、エジプトを脱出した翌年の第一の月、主はシナイの荒れ野でモーセに仰せになりました。ユダヤ歴の1月はアビブと呼ばれる月で、西暦では、3 月中旬から、4月中旬にあたります。この月の14 日に、過ぎ越しの祭りを祝うことが命じられました。

レビ記23 章5~8 節「第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。七日の間、燃やして主にささげる献げ物を続けて、七日目に聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。」

この過ぎ越しの祭りは、創造主にして救い主なる神様が、イスラエル民を、エジプトの奴隷状態から救い出されたことを記念する為に祝われました。いわば、神様の力によって、奴隷状態から脱出したことを記念する祭りでした。

そしてもう一つ、小羊の血を鴨居と門に塗ることで、初子の死という主の裁きを、過ぎ越して頂いたことを覚える祭りでもありました。加えてもう一つ、出エジプトを想起し、過ぎ越し祭を守ることは、イスラエルの民が、その存在意義を保持するための秩序でした。いわば、イスラエルの民が、過ぎ越しの祭りを守ることは、恵みと特権と義務でした。

その過ぎ越しの祭りにおいて、苦菜を食べることは、その苦い味によって、エジプトでの苦しい奴隷の日々を思い出す為でした。また酵母を入れないパンを食べることは、パン生地を膨らませる時間さえないほどに、急いでエジプトの地を出発したことを思い起こさせるためでした。

過ぎ越しのいけにえは、エジプトを出る時も、荒れ野でも、そして約束の地であるカナンの地でも捧げられました。私たち新約時代の神の民にとっても、私たちが、キリストの十字架の血によって贖われた者であることを、個人においても、教会においても、言動や奉仕の全てにおいて、支えとしなければならないことです。そのことを、みことばと礼拝や、聖餐式や三大祭でも覚えることが重要です。

過ぎ越しの祭りは、ユダヤ人だけでなく、在留異国人すなわち他国民であっても、開かれた祭りでした。加えて、過ぎ越しの祭りの日に、葬儀に参加したしたことによって宗教的な汚れをうけている人々は参加出来ずにましたが、一月遅れの2月14 日に、行うことが出来ました。さらにその祭りの時に、旅行中などの理由によって、正規の過ぎ越し祭に参加出来なかった者たちにも、1月遅れの2 月14 日の夕方より始まる、月遅れの過ぎ越し祭を守れることになっていました。

旧約時代の神の民も、新約時代の神の民も、自分たちは、自分の罪によって死ぬべきものであったのに、主のいけにえによって、生かされたことを決して忘れてはなりません。

続いて民数記9章15 節以降では、天幕である幕屋を、雲が覆ったことが記されています。イスラエルの民は、出エジプトしますと、その旅を導き、守られる象徴が、雲と火の柱でした。この雲と火の柱は、創造主にして救い主なる神様が、ご自身の民を導いておられる目に見える証拠でした。

詩編68 編35 節36 節「力を神に帰せよ。神の威光はイスラエルの上にあり、神の威力は雲の彼方にある。神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。神をたたえよ。」

またシナイ山において、モーセに語られた神様は、雲によって臨在を示されました。出エジプト記19 章9節「主はモーセに言われた。『見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。』モーセは民の言葉を主に告げた。」

荒れ野を旅するイスラエルの民は、徹頭徹尾、神様の命令によって前進し、また宿営して止まり、その戒めを守ることが本分でした。イスラエルの民にとって、約束の地に入ることよりも、神の民として、約束の地に入ることの方が重要でした。それは約束の地に入るのは、全世界の民に向けて、主の祝福の基となる使命の為に、約束の地に入るからです。

神様の民にとって、御言葉に直ちに従うところに、本当の幸いもあります。そして神様に対して、今日も「神様、私がここにいる間、何をすることをお望みですか」と問うことが大切です。私たちは、何らかの目的の為に、今いるところに置かれています。そして主に問い聞くことで、神様が私たちの人生に持っておられる目的を知る事か出来ます。現在は、雲や火の柱ではなく、御聖霊と御言葉によって、神様のみこころを知り、神様の導きに従って行動します。

主の命令と訳された言葉は、「主の口」とも訳せます。いわば、人は、神様の口から出る一つ一つの言葉で生きる存在です。申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」そしてわたしたちが、現在において解放されるのは、罪と死と悪魔による奴隷状態から解放され

ることです。ヘブライ人への手紙2 章14 節15 節「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」

最後に、イ・ギュヒョンという方の「霊的な味覚と喜び」という内容を受け留めます。最近、グルメ番組で紹介された店を訪れる人が多くなりました。旅行とレストラン情報誌『ミシュランガイド』を見て、厳しい検証を経て、良い評価を受けたレストランだけを巡る人たちもいます。おいしいものを食べることは、とても楽しく幸せなことです。中には『幸せとは、好きな人と一緒に、おいしいものを食べること』と定義した人もいます。

しかしクリスチャンは、別の次元の幸せを語るべきではないでしょうか。クリスチャンは、霊的な味覚が発達している人たちです。霊的な味覚とは、みことばの味に対する感覚であり、真理の味に対する感覚です。クリスチャンであるかどうかは、みことばに対して、どのように反応するかによって分かります。

この世の人々は、みことばの味を全く知りません。霊的な味覚がないので、みことばを嫌い、拒否反応を起こします。しかし、みことばの味を感じることができるクリスチャンにとっては、みことばは甘いものです。どんなに沢山聞いても、うんざりすることはありません。信仰が深まれば、みことばを味わう喜び、真理を知る喜びに浸るようになります。

主のことばを、昼も夜も口ずさむとき、私たちは、主との正しい関係を結ぶことができます。そして、主の喜びが、私の心に流れてきます。それで、みことばを愛する人は、真の喜び、永遠の喜びを味わうことができるのです。」

主にある愛する皆さん、みことばを、御聖霊によって聴き、キリストの福音に生かされ、永遠の喜びを頂きつつ、神の民として、主の御心に聴き従って歩みませんか。

お祈り致します。

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