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2021.8.1 ヨハネの黙示録18 章1~13 節「悪の勢力が倒れる」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年7月29日
  • 読了時間: 9分

牧師 松矢龍造


大バビロンと言われる反キリストの勢力があります。かつての悪の勢力であったのは、バ

ビロン帝国であり、ローマ帝国でもありました。そして中世の腐敗した教会であり、第二次

世界大戦時のナチス・ドイツ帝国であり、大日本帝国でもありました。そしてこれからも興

るでしょう悪の勢力である大バビロンも、神様の時に倒れます。

そして倒れると悪の巣窟となります。巣窟とは、悪事のおもなるところのことです。また

悪党などの隠れ家のことでもあります。そして人を捕えて監視しておく場所のことです。さ

らに死者の霊や悪霊が閉じ込められている場所のことでもあります。

その反キリスト、悪の勢力、悪霊の巣窟の罪は、積み重なって天にまで届き、神様はその

不義を覚えておられます。一時、悪の勢力が栄えても、悪霊の巣窟は倒れます。驕り高ぶり、

贅沢に暮らしていても、死と悲しみと飢えと火で焼かれます。その勢力の中に身をおいてい

てはなりません。その勢力から離れ去り、罪に加わったり、巻き込まれたりしないように十

分な注意が必要です。

大バビロンが、人々を虜にし、惑わしたものが、不品行と富と自分の名声によるものです。

それは私たちにとって大きな警告です。そして自分だけでなく、隣人にも警告し、証しする

ことが大切です。

ファン・ミョンファンと言う方が「離すと掴むの公式」ということで次のように言われて

いました。「サーカスで空中ブランコに乗る曲芸師は、ジャンプをするときに、掴んでいる

綱を離し、素早く前にある綱を掴まなければなりません。ところが、いくらベテランであっ

ても、後ろのものを離して、前のものを掴むまでは、非常に大きな恐怖を感じるそうです。

私たちの苦難の瞬間も同じです。今、掴んでいるものを離して、前にあるものを掴まなけ

ればなりませんが、先が見えないので不安と恐れがあります。そのようなとき、必要なこと

が二つあります。一つは、この世に対する愛着を捨てることです。それは『世と私は死んだ』と告白することでもあります。恐れが生じるとき、誘惑が押し寄せるとき、しきりに心を虜にしようとするものが生じるとき、そのようなものに打ち勝つための公式は『私はすでに死んだ。それとは関係ない』と告白すること、つまり『離す』ことです。

もう一つは『掴む』ことです。掴むものは神様の恵みです。先にある神様の恵みを信じ、

神様の約束に望みを置き、堅くそれを掴むなら、恐れから抜け出すことができます。私たち

は、上手く離し、上手く掴まなければなりません。だれでも恐れはあります。握っている綱

を離し、別の綱を掴まなければならないからです。この世のものを手離すために、神様の約

束を信じ、望みを掴むなら、恐れが消えます。そのようにするとき、神様から慰めと平安と

喜び味わうことができます。」

ヨハネの黙示録18 章1 節2 節「その後、わたしは、大きな権威を持っている別の天使が、

天から降って来るのを見た。地上はその栄光によって輝いた。天使は力強い声で叫んだ。『倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。』」

この倒れる大バビロン、悪の勢力から逃げ出ることが大切です。旧約時代にも警告があり

ました。エレミヤ書51 章6 節7節「お前たちはバビロンの中から逃げ、おのおの自分の命

を救え。バビロンの悪のゆえに滅びるな。今こそ、主が復讐される時、主はバビロンに仇を

返される。バビロンは主の手にある金の杯、これが全世界を酔わせた。国々はその酒を飲み、そのゆえに、国々は狂った。」

新約時代の使徒パウロも、不信者とくびきを共にしないように警告しています。コリント

の信徒への手紙二6 章14~18 節「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛

につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何の

つながりがありますか。

キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこ

う言われているとおりです。『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神とな

り、彼らはわたしの民となる。だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と

主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなた

がたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せ

られる。」

続いてヨハネの黙示録18 章3 節「すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである。」

ここでの、ぶどう酒は、ローマの権威が民衆を引き付け、またローマが世界を支配するために使った権威の魅力を象徴しています。ぶどう酒の飲みすぎで中毒となり、的確な判断力を失うように、民衆は、ローマの軍事力と富に翻弄されました。

続いてヨハネの黙示録18 章4~8節「わたしはまた、天から別の声がこう言うのを聞いた。『わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。彼女がしたとおりに、彼女に仕返しせよ、彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。彼女がおごり高ぶって、ぜいたくに暮らしていたのと、同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えよ。彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。』

それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、

彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」

かつて不品行と富と名声に対して、死病と悲しみと飢えが彼女を襲います。彼女を裁く主

なる神様は、力ある主だからです。

9~11 節「彼女とみだらなことをし、ぜいたくに暮らした地上の王たちは、彼女が焼かれ

る煙を見て、そのために泣き悲しみ、彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立ってこう言う。『不幸だ、不幸だ、大いなる都、強大な都バビロン、お前は、ひとときの間に裁かれた。』地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。もはやだれも彼らの商品を買う者がないからである。」

ローマ帝国は、港と街道を通して、地中海世界を支配していました。商人たちは、ローマ

の法に従って税を納めなければなりませんでした。その代わりに、ローマ帝国は、彼らを保

護し、商品の売買の為に巨大な市場を提供しました。

12 節13 節「その商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻の布、紫の布、絹地、赤い布、あら

ゆる香ばしい木と象牙細工、そして、高価な木材や、青銅、鉄、大理石などでできたあらゆ

る器、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、小麦、家畜、羊、馬、

馬車、奴隷、人間である。」

ローマ人は、占領した多くの土地から、人々を連行し奴隷にしました。ローマ人は、これ

らの奴隷の多くを、裕福なローマの指導者たちの家や家庭に仕えされました。AD1 世紀後

半には、ローマの人口の約半分を奴隷が占めていたと言われています。

奴隷のあとに、人間とあります。この時の人間とは、ローマの指導者たちや民衆の娯楽と

して、闘技場で戦い死ぬように決められた人々を指します。この人間の中には、迫害によっ

て捕まえられたキリスト者たちも含まれます。そして悪い商人は、不義と協力します。

けれど私たちは、そんな奴隷や人間を商売とすることはないと思いますが、他の商品のリ

ストの中で、自分の家にあるものがないでしょうか。もしあるなら、それらは何の為にある

のでしょうか。クリスチャンは、不正なお金や地位、贅沢や誘惑と、関りを持たないように

と警告されています。

私たちは、むしろキリストが模範として示した価値観を重んじることが大切です。すなわ

ち、奉仕、寄付、自己犠牲、従順、真理に従って生きることなのです。そして委ねられた財

産や賜物を、他者や隣人を助けるために用い、神の国を発展させることです。日々御言葉と

祈りと御聖霊に触れていないと、キリストの価値観より、世の魅惑が心を占めるようになっ

てゆきます。

この世の民が、不品行と富と名声を楽しむのに対して、神の民が、人生を楽しむとしたら、

何に対して真に楽しむことがふさわしいでしょうか。キム・ウンホという方が、「御霊によ

って喜びなさい」という中で「人生を楽しんでしますか」ということで、次のように言われ

ています。「信仰告白書であるウェストミンスター小教理問答書の第一問は、人のおもな目

的は、『神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ事です』と言っています。

英文では、この『喜ぶ』という表現に『エンジョイ・enjoy』が使われています。私たちの

文化は、『エンジョイ』という単語は、人間の末梢神経を刺激する快楽や、この世のものを

欲する楽しさという否定的なイメージがあります。人は、世に対して、思う存分エンジョイ

しているように思います。お金を愛し、淫らな動画に夢中になり、おいしいレストランを巡

って快楽を味わうのです。

しかし、神様に対してエンジョイは出来ません。神様だけで満足し、楽しむときに、神様

は最高の栄光を受けられるのに、私たちは、真のエンジョイが、できないでいるのです。

神様が私たちを召されたのは、私たちに重荷を負わせるためではありません。様々な信仰

の義務を要求するためでもありません。主にある喜び、つまり御言葉に従い、礼拝の感動を

通して、神様だけを見上げるときに与えられる純粋な喜びを味合わせるためです。

多くの人は、神様と共に歩む生き方を、御言葉に従って荒野で寂しく生きることのように

考えます。荒涼とした砂漠の道を、主と共に、とぼとぼと歩くことを想像し、楽しいとは思

わないのです。しかし、主に従う者には、魂の喜びがあります。神様だけが与えることので

きる暖かい保護、深い慰めがあるのです。

主にある愛する皆さん、世の誘惑と快楽には、魅力的な味わいがあると悪魔はうそをつい

て誘います。しかしそれに乗るなら、やがて死病と悲しみと飢えと滅びとなります。主に従

う道には、魂の喜びがあり、神様だけが与えることが出来る暖かい保護と深い慰めと、永遠

の命と真の喜びがあります。

世の誘惑と快楽による喜びから立ち去り、真の主にある喜びを求めてゆきませんか。

最後にイザヤ書52 章11 節と48 章20 節を拝読して閉じます。「立ち去れ、立ち去れ、そ

こを出よ。汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。祭具を担う者よ。」「バビロンを出よ、カルデアを逃げ去るがよい。喜びの声をもって告げ知らせ、地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。」

お祈り致します。

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