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2021.8.22 ヨハネの黙示録19 章11~21 節「再臨の主キリストによる裁き」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年8月19日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


キリストが再び、この世に来られる時の姿は、どのようなものでしょうか。キリストは、一度目の時は、マリアの胎を通して、この世に来られました。そして大人になられた時、エルサレムへの入場は、子ロバに乗って、平和と救いの君として来られました。

しかし今日の御言葉では、キリストが、獣すなわち、今まで絶えずその御国の原理に逆らってきた世の権力を裁くために来られるときの、崇高な御姿が表されています。イエス様が、初めに来られた時は、私たち人類に対して、赦しをもたらすために来られました。しかし二度目に来られる時は、裁きをもたららされます。

さらに言えば、初めに来られた時は、私たちの罪のために、十字架で、いけにえとなる為に、神の小羊として来られました。しかし二度目は、裁きを実行するために、軍馬に乗り、征服者として、また王として戻って来られます。

テサロニケの信徒への手紙二1 章7~10 節「また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。

主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。

かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。」

再臨のキリストは、白い馬に乗って来られるとあります。11 節「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」

白い馬は、戦いの勝利を象徴しています。乗っている方すなわち騎士は、主キリストであり、出陣する軍の指揮官のようです。しかも悪の勢力を裁かれ戦われる時、「誠実」と「真実」と「正義」をもってなさいます。

12 節「その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。」再臨される主キリストの目は、燃え盛る炎のようであると、たとえられています。それは主の裁きの力が、透徹した、全てを見通すものであることを暗示しています。

主キリストは、あらゆる反逆も不信も察知することがお出来になります。

続いて頭に多くの冠があったとあります。多くの冠は、キリストの権威を象徴しています。当時の王は、複数の冠を被るのが普通でした。さらに、この方は、自分のほかはだれも知らない名が記されていました。それは、救い主イエス様の新しさの強調です。またユニークな名前であり、人間をはじめ、被造物世界の権力に付けられた名では、表せない内容ということです。

さらに言えば、どんな名前も、イエス様について、正しく示し、言い尽くすことが出来ないことを示唆しています。すなわち人間の思考が考えつく、どんな記述や表現よりも、偉大な名が記されていたのです。フィリピの信徒への手紙2 章9 節「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

続いて13 節「また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は『神の言葉』と呼ばれた。」

血に染まった衣とは、救いを与えるための、いけにえの血を象徴しているのか。あるいは、報復と裁きを意味するところの、血の染まった衣なのか。おそらく裁きの為に来られたので、後者ではないかと思われます。そして、その名は神の言葉と続きます。ここでは、イエス様が神の言葉です。

14 節「そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。」天の軍勢とは、恐らく、天使と殉教者たちのことでしょう。彼らも勝利の象徴ある白い馬に乗り、キリストの血によって救われ、正しい行いをしたことを表す、白い清い麻の布をまとって、主キリストに従っていました。

15 節「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。」

鋭い剣とは、闘いのためであり、鉄の杖は、支配の為に使われるものです。そして剣は、神の言葉の比喩です。ヘブライ人への手紙4 章12 節「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」

続いて怒りの酒ぶねは、破壊の為であって、頑迷な者たちへの神様の全能性を示しています。さらに「ぶとう酒の搾桶を踏む」とあります。当時、収穫されたぶどうは、ぶどうの搾り場に運ばれ、人が裸足で踏んで果汁を搾りました。聖書では、神様の裁きの象徴として、度々、ぶどうの搾り場が登場します。国々を足で踏み、怒りを爆発させる場所といわれました。

哀歌1 章15 節「わたしのもとにいる力ある者を、主はすべて退けられた。わたしに対して時を定め、若者らを砕かれた。主は、酒ぶねを踏むかのように、娘ユダのおとめらを踏みにじられた。」

神様を拒否する人々は、搾り桶のぶどうのように踏みつぶされます。

16 節「この方の衣と腿のあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた。」王の王、主の主とありますのは、再臨の時に現わされる、絶対的な権力と力とによって、神様のあらゆる敵に対する普遍的な勝利を収めるお方だということです。

17 節18 節「わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。『さあ、神の大宴会に集まれ。

王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。』」

これは花婿なるキリストと花嫁なる教会の婚宴ではありません。別の裁きにおける神の大宴会です。婚宴は、祝宴であり、もう一方は、荒廃です。世の社会的な地位や立場に関係せず、神様の恵みとキリストの福音を拒む者、逆らう者は、この裁きから逃れることは出来ません。宴会と訳された言葉は、一日のうちに最も主要な食事・正餐と言う言葉が使われており、裁かれた人たちの肉が、全ての鳥の主要な食事・正餐とされると預言されています。

19~21 節「わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。

このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。」

この主キリストによる裁きの大宴会を通して、私たちは、いつくかのことが確認できます。第一に、この裁きの大宴会は、すでに予定され、準備されています。キリストに従わないという共通点を持つ、海から上って来る獣すなわち反キリストの勢力も。地上から上って来る獣すなわち偽預言者も。異教宗教も、偽キリストも異端も含まれています。これらは、全て神様の時に、主キリストによって裁かれてしまいます。

第二に、キリストが、栄光のうちに、地上に再臨され、敵を鎮圧し、御国を打ち立てられます。第三に、この神の裁きの大宴会は、御国の樹立に先立って、神様の残敵が壊滅されることが示されています。その大宴会の為に、猛禽が呼び集められます。第四に、これをもって、大患難時代は幕を閉じます。第五に、イエス様が、十字架上で、私たちの罪の為に死に、死者の中から復活された時に、霊的には勝利は得られています。そしてキリストが再臨される時、実際の戦として、悪の勢力の全滅の時が来るということです。

神様の時に、悪の勢力は、全て滅んで行きます。そのことを覚え、現在の世の勢力による攻撃に耐え、そして悪の勢力から一人で多く、主の下に立ち帰る人々が起こされますように。御聖霊によって、神様の召しの衣を身にまとい、世界の平和の為に仕え、宣教に励むことになりますように。

最後に、キム・ウィファンと言う方の「聖なる召しの衣を着て」という内容を受け留めます。「スポルジョン牧師は、彼が仕えている教会で、牧師を志願する人が出てくると、まずは牧師になることを止めたそうです。いくら止めても、必ず牧師にならなければ生きられない告白すれば、それこそまさに『聖なる召し』だと教えました。このように、確かな召しがあるかを確認した後、牧師になる道を指導し、支援したのです。

『聖なる召し』には、『この道以外には、私の人生の意味を全く感じることができない』という強い思いが与えられます。このように聖なる召しの衣を着て、神様の働きをする人が、まことの働き人ではないでしょうか。私も神学大学志願者の面接を受け持ったとき、受験生たちに、召しがなければ、神学の勉強を始めないようにと勧めました。

聖なる働きに対する召しなしに、ただ牧師になる過程として、神学の勉強をしてはいけないという意味です。宗教改革者のルターは、聖職者だけが召しを受けるのではなく、だれでも自分がしている仕事について天職意識を持てば、それがまさに召しであると言っています。このような意味において、彼は職業を召しと同一視しました。このルターの召しは、カトリックの聖と俗という二重の召命に対する反論として、万人祭司という教理に起因しているのです。

カルヴァンは、『召命こそ、難しい聖職を担うことができる内的力であり、誘惑と試練に打ち勝たせる要因』であると言いました。どのように仕事をするにしても、神様が私を選び、召してくださったという聖なる召しは、与えられた仕事を担う上で必須要素です。」

主にある愛する皆さん、再臨のキリストが、やがて神様の時に来られます。全ての悪の勢力は裁かれ滅びます。その悪の勢力から、私たちの隣人が救い出される為に、委ねられた召しの衣に応えて、神様の栄光と救いの為に、御聖霊の力を祈り求めて、お仕えしてゆきませんか。

お祈り致します。

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