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2021.8.22NGW ヤコブの手紙1 章22 節『みとばを聞いて行う』

牧師 松矢龍造


神の御子イエス様が、人となって来られた時、御聖霊なる神様によって、マリアさんの胎に宿り、誕生されました。そして育ての親であるヨセフさんの長男として30 歳までお母さんと、他の兄弟たちと過ごしました。その兄弟の一人であったヤコブさんが、お兄さんであったイエス様を、毎日の生活を見ながら、後にヤコブの手紙を書きました。

そして「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者になってはいけませんと」と伝えました。それは、イエス様が、教えを語るだけでなく、その通りに生きた神の御子であったことを思い出してヤコブの手紙を書いたのではないでしょうか。

世には、聖人と言われる人が何人かいます。良い教えの一部を説いたといえます。しかし自分自身が、他の人に教えた全てを行い得たかと言いますと、そうではないと思います。しかしイエス様は、教えられた全てのことを行った、まさに神の御子でした。

親は子どもたちに、「こうしたらよい。」あるいは「これをしてはいけません」と教えるかもしれません。けれど、親自身も、子どもたちに教えた全てのことを行い得たのではありません。自分自身を見てもそのとおりです。ですから、親も子も、全ての人は、イエス様の救いと助けが必要です。

イエス様は、ある時、小高い山の上で、沢山の教えをしてくださいました。そしてその教えの最後に、家と土台という、たとえ話をなさいました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」

「雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしの、これらのことばを聞くだけで、行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いて、その家に襲いかかると倒れて、その倒れ方がひどかった。」

賢い人と、愚かな人は、何が違ったのでしょうか。共に自分の家を建てました。共に嵐に遭い、雨も風も洪水も皆同じでした。しかしその結末、終わりが違いました。賢い人の家は、嵐に遭っても平気でしたが、愚かな人の家は、壊滅的な打撃を受けて、倒れて破壊されました。

何が違ったのでしょうか。それは家の土台が、違っていたのです。賢い人は、岩の上に家を立て、愚かな人は、砂の上に家を建てました。土台の違いは、普段は変わらなく見えていますが、人生の嵐が来た時に、その違いが大きく分かります。

イエス様は、岩の上に家を建てた人とは、イエス様の言葉を聞いて行った人であり、砂の上に家を建てた人は、イエス様の言葉を聞くだけで行わない人であると、たとえられました。人生の終わりに、神様の裁きと言う洪水を前にして、イエス様を信じてその御言葉を実行に移してきた人は、揺るぎません。しかしイエス様の言葉を無視してきた人は、悲劇的な結末を迎えます。かつて旧約聖書の時代に、ソドムという街に、汚れた人たちが大勢いて、神様に逆らい、悪をなしていました。そこにロトと妻と二人の娘さんが移り住みました。ところが、ソドムという街の悪が満ち、創造主なる神様は、このソドムの街を硫黄と火で滅ぼすと言われました。

その時、叔父さんであったアブラハムさんは、甥のロトさんたちが心配で、ロトさんたちを救って欲しいと神様に頼みました。すると神様は、ロトさんたちに御使いを送って下さいました。御使いは、ロトさんたちに、「この街は神様によって滅ぼされるから、後ろを振り返らず逃げなさい」

と警告しました。ロトさんと二人の娘は、その御言葉を信じて、逃げました。

しかしロトさんの妻は、後ろを振り向いてしまい、塩の柱となってしまい、二人の娘さんの婿たちは、無視して逃げず、ソドムの待ちと共に、硫黄と火の裁きで、滅んでしまいました。神様の御言葉に従うか、無視するかで、その後が、まったく違います。

イエス様の言葉を聞いて行うとは、どういうことでしょうか。第一に、岩の上に家を建てるとは、イエス様の御言葉に耳を傾け、信じ、応答する弟子であるということです。

第二に、御言葉に従うことは、人生の嵐や難局を切り抜けるための堅固な土台となります。

第三に、神様の言葉を聞くことは、重要ですが、それにもまして、大切なことは、その御言葉に従い、行うことです。

第四に、神様の言葉である聖書を学ぶ時間が、本当に有効となっているかは、聞いた御言葉が、私たちの振る舞いや、態度に影響を及ぼしているかによって分かります。私たちは、学んだ御言葉を、行動に移しているでしょうか。

第五に、土台とは、自分の生き方や人生が、どこに向かって進んでいるかということです。イエス様が、土台であり神様を心から愛し、隣人を自分と同じように愛することに、

わたしたちの生き方や、人生が向かっているでしょうか。

第六に、自分の力だけでは、御言葉を聞いても従い得ません。従えない罪を、神様の御前に告白し、救い主イエス様の十字架による罪の赦しを頂くことです。

そして第七に、御聖霊なる神様の力と愛を祈り求めて、御言葉を聞くだけでなく、実行出来るように変えて頂くことです。

イエス様の教えは、他の律法学者たちの教えと、まったく違いました。律法学者は、教えの根拠を、他の伝承や人の言葉を権威のよりどころにしました。しかしイエス様、ご自身が神の言葉を語られた本人でした。イエス様は神の言葉、そのものでした。さらに律法学者たちは、教えても行っていないので、権威がありませんでした。しかしイエス様は、教えられたことを完全に行われた権威あるお方でした。

このイエス様に倣い、イエス様に結びつき、復活されたイエス様の力を、御聖霊なる神様から頂いて、御言葉を行ってゆく歩となりませんか。そして神様に従う自由を頂き、舌を制御し、きよい生活を送り、隣人を助け、お世話をする生活をしてゆきませんか。ならば人生の嵐や、裁きという洪水の中でも、恐れることなく、救い出されます。最後にもう一度ヤコブの手紙1 章22 節「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」

お祈り致します。

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