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2021.8.29ヨハネの黙示録20 章1~6 節「キリストと共に千年間治める」

牧師 松矢龍造


コロナ禍で、感染者の数や、ワクチンを受けた人の数、また猛暑の夏の気温の温度数が気になります。さらに台風や雨量や地震の大きさにも数が気になります。日本のおいては、この数には、文字通りの物理的な数ということが、ほとんどです。しかし聖書やユダヤの文化には、物理的な意味での数字もありますが、象徴的な意味合いとして数字が多く出てきます。

たとえば3は天を象徴し、4は地を象徴します。そして天という3と、地と言う4を足すと、天と地の創造は7となります。あるいは、3と7 と12 は、完全数です。さらに千は、強調する数字でもあります。今日の御言葉にも、千年の間という表現が何度も出てきます。千という数字は、聖書の中には物理的な意味で兵士がたとえば千人と出てきますが、恵みは幾千代にも及ぶと、象徴的にも出てきます。

たとえば、旧約聖書では、出エジプト記20 章6 節「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」さらにヨブ記9 章3 節「神と論争することを望んだとしても、千に一つの答えも得られないだろう。」

そして新約聖書にもあります。ペトロの手紙二3 章8 節「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」ヨハネの黙示録でも、5章11 節「また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。」

ですから、今日の御言葉において、千年の間と出てきましても、その意味は物理的な意味で千年なのか、それとも象徴的な意味での千年なのかは、解釈が分かれるのです。すなわちサタンを千年の間、縛っておくのは、物理的な意味で千年間なのか、それとも象徴的な意味での千年なのか。さらにキリストと共に神の民が、千年の間統治するのは、物理的な千年間なのか、それとも象徴的な千年なのか。解釈が分かれます。

けれど、最も重要なのは、どちらかではなく、共通していることは何かということと、それぞれの解釈によって、教会が分裂しないようにということです。解釈にこだわるより、キリストにある一致こそ、最も重要なことです。

聖書において、千という数字が、象徴数字の場合は、いくかの意味を持っています。一つは、比較的長期間であるという意味です。二つ目に、神様の計画の中で、十分な期間であるという意味でもあります。さらに三つ目として、創造主なる神様が、定められた期間という意味でもあります。

そのことを踏まえながら、もう一度ヨハネの黙示録20 章1 節「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。」底なしの淵とは、悪霊や反キリストの勢力が閉じ込められている場所のことです。

2節~3節「この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。」

底知れぬ所も、創造主なる神様の支配の中にあります。サタンの決定的な敗北は、すでに主イエス様の十字架と復活によって成りました。これがサタンの拘束の第一段階です。そして第二段階のサタンの拘束がなされます。物理的な意味で千年なのか、それとも神様が定められた期間であることが強調されているのか。サタンは、悪魔、年を経たあのアダムとエバを誘惑した蛇、黙示録では竜と言われている存在です。

サタンも、創造なる神様の許可なしで、活動は出来ません。そしてしばらくの間、解放されるとあります。それは、サタンの勢力が誰であるかが、明らかにされる為でしょう。イエス様の表現では、人が神の民という麦か、あるいは、反キリストの勢力という毒麦かが、明らかにされるためだということです。

4 節「わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。」

イエス様の証しと、神の言葉の為に、殉教した人達、あるいは、皇帝礼拝や偶像礼拝を拒み、額や手に獣の刻印を受けない人たちがいます。彼らは、生き返って、キリストと共に、千年の間、統治したとあります。この千年の間の統治を巡って、大きく三つ目の節があります。一つは、物理的な意味での千年間、キリストが再臨される前に、千年王国を統治するという説です。これは別名、千年王国後再臨説と呼ばれます。

二つ目は、同じく物理的な意味での千年の間、キリストが再臨された後に、千年王国を統治するという説です。これは別名、千年王国前再臨説と呼ばれます。

そして三つ目は、無千年王国説というものです。キリストが十字架にかかり復活された後に、教会時代となり、このことを千年王国と言い、終末において物理的に千年間王国が別に存在するのではないという説です。キリストが十字架にかかり復活されてから、キリスト者は、すでに王の系統を引く祭司と霊的になっているからというものです。

新約聖書ペトロの手紙一2 章9 節「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」

三つの説のどれかは、断定できません。むしろ三つの説が共通していることは、キリストが世の終わりに再臨されて、サタンを完全に倒し、永遠に統治されるということです。

5節「その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。」その他の死者とは、キリストをあくまでも拒み、サタンの勢力から抜け出ることなく、肉体の死を向かえた者たちのことです。彼らは、最期の審判の後に、燃えるゲヘナに投げ込まれて滅んでしまう者たちです。

第一の復活とあるのは、後に空中で携え挙げられ携挙されるキリスト者たちのことを第二の復活と呼ぶことの表現の故と思われます。空中携挙とは、前にも取り上げましたが、キリストが再臨された時、地上でキリストを信じている神の民は、肉体の死を経ずに、空中で一瞬に永遠の体に変えて頂けることです。

迫害され殉教して、肉体の死を経験し、この世を去りましたが、復活してキリストと共に永遠にいるということは、大いなる希望であり、慰めです。しかし未信者にとっては、大いなる警告となっています。

迫害やプレッシャーを受けている神の民にとっては、フィリピの信徒への手紙1 章21~23 節の思いです。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。

この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」

6 節「第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」

第二の死とは、第一の肉体の死の後、最後の審判で、永遠の滅びとなってゲヘナで滅びることです。キリスト者にとって、この第二の死は、何の力もありません。ですから、どの時代の人たちも、悪魔の惑わされないようにしなければなりません。惑わすと訳された言葉は、騙す、迷わす、誤らせる、踏み惑わすという意味でもあります。

悪魔の誘惑や攻撃、偽預言者や反キリストの勢力による誘惑や攻撃によって、惑わされてはなりません。むしろ誰もが、キリストによる救いを信じて、第二の死から免れることが、最も重要なことです。

そして神とキリストの祭司となるべきです。祭司とは、旧約時代は、イスラエルの民のうち、レビ族の子孫が、幕屋や神殿で、祭司として仕えました。祭司の仕事は、民の為に、神様にいけにえを捧げ、とりなすことです。

新約時代は、キリスト者は、全員、霊的な祭司として、人々を主にあって祝福します。また隣人の救いの為に、祈り、執り成します。そして礼拝を捧げつつ、神様の証しをし、神様の言葉を伝えます。さらに言えば、キリストが私たちの救いの為に、全てを献げて下さって犠牲の愛と真実に応えて、生涯を聖なる犠牲として、献げます。

かつて第二次世界大戦の時、日本の教会は、迫害の中で、軍部に妥協して、天皇を神として拝むように、日本の教会と韓国の教会に勧めてしまった時がありました。その時に、韓国の教会は、妥協しませんでした。戦後、韓国の教会は大きな霊的な復興に預かりました。しかし何十年かして、一部腐敗した時期がありました。その時、イ・チャンスという方が「教会はよみがえる」と題してこのように言われました。

「ある年の夏、韓国の教会に、恥ずかしく耐えがたいスキャンダルがたくさん起きました。私は深い絶望に陥りました。『韓国の教会は終わった。もう希望がない。働きを全部やめて、家族のいるアメリカに帰ろう』とまで考えました。当時の私の状態は『落胆』そのものでした。

このような韓国の教会の問題は、一つ二つの教会が何かしたからといって回復するものではないと思い、希望もなくなったのです。神様は、そんな私を説得されました。『しっかりしなさい。あなたは今、必要以上に落胆している。教会がつぶれるとでも思っているのか。十字架を負ったイエス様が、教会の主人ではないか。今の問題は、教会の中の福音を殺してしまった牧会者の堕落によって起こった結果に過ぎない。今からでも、福音に目覚め、十字架の血潮と、イエス・キリストが鮮明に現れるよう、しっかり気を取り戻して働くなら、教会は回復する。教会はよみがえる。韓国の教会に第二のリバイバルの時が、加鳴らず来ることを信じなさい。』

その日の早朝、私は真実な数多くの牧師たちのために祈りました。各所で依然として誠実に教会に仕えておられる牧師と牧師夫人たちのために祈りました。あなたは、寂しく、つらい時間を過ごしていますか。何もない荒野で一人で立っているように感じますか。荒野にいたイスラエルの民のように、間違った道に進んで困難にあい、人生がこじれていますか。そんなときこそ、立ち上がって神様の約束を掴むべきなのです。」

主にある愛する皆さん、サタンの惑わしに陥らないように、主が止めて下さいます。キリストと共に、霊的に統治する新約的な祭司として、歩みませんか。最後に、イム・ヨンスという方の「完全になるための促進剤」という内容を受け留めて閉じます。「人生には、純粋な喜びと希望だけがあるのではありません。人生には、挫折と憂鬱、寂しさ、不安もあります。

私たちを挫折させるすべてのものも、万物を新たにされる神の最後の約束に含まれています。闇の時間の中にいても、恐れないでください。その時間の中で、私たちは初めて、神様がノックされる音を聞くことがでるからです。

苦しみの中でも、現実を肯定し、忍耐することかできるのは、その現実の中で、神様がともにいてくださるからです。私たちの忍耐は、無意味ではありません。苦しみの中での忍耐は、私たちが完全になるための促進剤です。」

お祈り致します。

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